スカイラインの戦闘 (和宇慶南西稜線の戦闘)

 前進陣地161.8高地が4月6日に米軍に占領された後、東方海岸沿いに南下した米軍は和宇慶の独立歩兵第11大隊が守備する主陣地帯を攻撃してきた。

4月7日
 独立歩兵第14大隊正面においては、左第4中隊は昨日6日以来主陣地内に敵が侵入し混戦状態を続け、陣地は分断されながらも我如古北東側陣地、120m閉鎖曲線高地(棚原北東2km)拠点によって奮戦した。大隊本部との連絡は絶え大隊本部も状況を把握できなかった。右第5中隊の北上原陣地(Red Hill)では戦車約15両を伴う米軍の攻撃に対し、巧みに歩戦分離を図り、戦車3両を破壊し、2回にわたって米軍を撃退したが遂に同地は占領された。
 歩兵第63旅団長は独立歩兵第14大隊正面の戦況が急を告げたため、幸地付近にある独立歩兵第12大隊4中隊(幸地に後退した賀谷支隊)を14大隊長の指揮下に入れ155高地(Tomb Hill)付近の陣地を強化させた。南上原付近のわが陣地の健在と和宇慶付近守備隊の善戦によって米軍の南進を阻止した。

 ピナクルの奪取後、第184連隊はピナクルの西側及びその東側のrocky finger ridges(場所確定できず)から南方へ少しずつ浸食するように進撃を続けた。海岸線の平野部を進撃する第32連隊はほとんど抵抗を受けることなく、第184連隊と連係をとりつつ前進した。 時折台上の日本軍が激しい砲火で第184連隊を攻撃することがあったが、これらを第32連隊の前衛部隊が駆逐するように努めた。
それにより第184連隊の進撃速度は軍団左翼を固めることとなった。4月7日までに第7師団長はピナクルの監視所から前方を偵察し、第184連隊は日本軍主陣地に到達したと感じ取ったのである。

 第7師団隷下の部隊は4月7日南上原集落の西側1100mの小高い植生のない(その色からRed  Hillと呼ばれた)丘において戦闘状態に入った。敵は例によって洞窟と連絡用塹壕を巡らせ、要塞化していた。第184連隊第3大隊によって最初の攻撃が開始されたが機関銃と迫撃砲の攻撃により失敗に終わった。第2回目の攻撃は3個戦車小隊の支援下に行われた。
10両の中戦車、5両の軽戦車がRed Hillに進撃した。頂上や側背に向け縦隊で進撃したが2両の戦車が地雷で、さらに1両が爆雷によって吹き飛ばされた。激しい敵の野砲や機関銃の反撃により歩兵部隊は後退せざるを得ない状態となり、戦車部隊も同様であった。日本軍は火力を集中し、戦車を爆雷などで破壊した。2両の中戦車で日本軍の攻撃をくい止め、手榴弾で防御しながら残りの戦車の撤退を援護した。


4月8日
 155高地(Tomb Hill)陣地は多大の損害を受けたが、独立歩兵第12大隊の第4中隊の支援もあって陣地を確保した。しかし戦闘激烈を極め、155高地の保持困難となったため、独立歩兵第12大隊長は第5中隊を8日夜155高地に増強した。この日東海岸道方面にあっては、津覇付近に米軍が進出してきたが活発な行動はみられなかった。 (7日の攻勢中止となり、8日の夜間攻撃に変更になった。このため歩兵第63旅団長は、独立歩兵第14大隊を独立歩兵第12大隊長の指揮下に入れた)



 第184連隊は4月8日、9日の両日引き続き軍団の東翼の進撃を続けた。敵は恐るべき拠点をRed HillからHill178(157高地)にかけてのTomb Hill(和宇慶の北西1100m)やTriangulation Hill(Tomb Hill北西1100m)に構えていた。敵の砲撃は第7師団正面で特に激しかった。特に歩戦協同部隊は日本軍拠点の目標とされた。猛烈な敵の砲撃は歩兵部隊を一歩も動かさず、戦車部隊も機動不可能であった。後退しようとすると日本軍は爆雷で戦車や兵士を攻撃した。
 Triangulation Hillは4月8日に2回の攻撃により奪取した。



4月9日
 155高地は9日朝から、艦砲、砲迫の集中火と戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け激戦を繰り返した。155高地付近の陣地には当初独立歩兵第12大隊第4中隊、更に8日夜には第5中隊が増強されていた。激戦の末多数の死傷者を生じ、155高地頂上付近は米軍に占領されたが、わが守備隊は高地斜面の墓地などを利用して頑強に抵抗した。

Tomb Hill(斜面に多くの墓があるためそう名付けられた)は4月9日に奪取した。その際は歩兵と戦車が密接に協同し、野戦火力や航空火力の援護の下に、なんとか丘の頂上部を確保することができた。この占領により第32歩兵連隊のRocky finger ridge(Tomb Hillの東側で和宇慶への接近経路を制する)奪取が可能となった。日本軍はTomb Hillの反対斜面をねばり強く保持した。その場所はHill178(南西1600m)の観測点から直視できる位置であり、Tomb Hillの南斜面を掃討行動を制約した。
 第96師団の隷下部隊が嘉数高地に手こずっている一方、7師団隷下部隊な4月8日、9日と第184連隊の攻勢とともに東翼で順調に進撃を続けていた。Tomb Hillは第184連隊が迫撃砲や榴弾砲の支援下に9日に占領した。このことで第7師団は9日と10日で数百m前進ができた。第32歩兵連隊は海岸平野部を進撃し、第184連隊は錯雑した内陸高地帯を進撃した。悪天候にもかかわらず、艦砲射撃や野砲の支援を受けることができた。敵の抵抗は大きかった。日本軍の砲撃は激しくかつ増大し、小規模ながらよく統制された逆襲に遭遇した。

4月10日
 155高地(Tomb Hill)陣地は昨9日頂上付近を米軍に占領されたが、独立歩兵第11大隊、独立歩兵第12大隊の所在部隊は同高地南側陣地を保持してその進出を阻止した。東海岸道和宇慶正面には、米軍が慎重な行動で南下してきたが、わが守備隊(独立歩兵第11大隊第5中隊)は和宇慶部落を保持して南下を阻止した。

 4月10日と11日、第32連隊は和宇慶に進出を図る一方、第184連隊は洞窟や,掩蔽された敵陣地から小規模の逆襲を受けていた。日本軍は和宇慶に対し火力支援を計画し、部落の北側に地雷原、トーチカ、塹壕を張り巡らして強力な守備陣地を構築していた。冷たく突き刺すような雨で部隊の進撃は困難となり、兵士は惨めな状況であった。第32連隊第2大隊は西側で第184連隊と連繋をとり、平野部を見下ろす一連の突出部をゆっくりと前進し、第1大隊は和宇慶に迫っていた。

4月11日
 東海岸道方面においては、11日戦車を伴う有力な米軍が和宇慶部落北側に進出して来たが、わが部隊は対戦車障害と火力によってこれを撃退した。 

 4月11日第1大隊の各部隊は攻撃準備射撃の後和宇慶に侵入し、そこで45名の日本軍を殺害した。しかし支援戦車は和宇慶の北側で地雷原に阻まれ停止した。日本軍の重火器が戦車と地雷原除去分隊を攻撃した。このため嘉数高地で受けたように渓谷で射撃を受け支援部隊と分断されるという状況になった。和宇慶に進撃した部隊は直ちに後退するよりなかった。

4月12日
 米軍攻撃不活発。

 4月12日第1大隊は警戒部隊を和宇慶に送り込み、第2大隊は450m西方の伊集に偵察隊を送り込んだが、ともに得られる情報はなかった。第7師団は日本軍が強力に保持しているHill178の北東200〜350mの地点まで迫っていた。

4月13日〜17日の間、米軍は局部的の攻撃を実施したが、わが戦線には大きな変化はなく、米軍の攻撃準備が観察された。軍は米軍の次期攻撃に備えて防備の強化を続けた。

この南上原の台端部は比較的当時の面影を残していると思われる。
スカイラインを背後から(日本軍側)見ているが、平野部におけるこの稜線には縦深がなく、主陣地としての防御には指揮官も苦労されたであろうことが推察される。
海岸部の主要道路は現在では中央の病院付近を通っているが、当時はスカイライン東端の右にあった。

4月19日
 東海岸の和宇慶正面は19日0600頃から猛砲撃を受け、0630頃から戦車を伴う有力な米軍が攻撃前進してきた。米軍戦車5両は、和宇慶南西稜線(米軍呼称スカイライン)のわが陣地に突進来攻し、0700頃には歩兵部隊も稜線に進出して来た。独立歩兵第11大隊は、米軍の猛攻により多大の損害を生じたが、高地奪回の師団命令もあって、勇戦敢闘し夕刻までには米軍を撃退し、和宇慶南西の稜線及び伊集西側高地の陣地を確保した。19日の独立歩兵第11大隊の損害は大きく、第5中隊は全滅に近い死傷者を生じた。

中城方面から南下してきた米第7師団は、右翼(千原〜長田)第184連隊、左翼(和宇慶〜南上原)第32歩兵連隊を展開。
 和宇慶正面は早朝(0630頃)から戦車2、装甲車3による攻撃開始。戦車は和宇慶を通過、稜線地帯の先端に停止し、墓を陣地とした日本軍を攻撃した。0700頃から歩兵が進撃を開始した。0710にはI中隊が丘陵突端を占領した。L・K中隊はこの右で丘腹を登ったが、日米の熾烈な歩兵戦が繰り返され、和宇慶高地に続くスロープを登るところで進撃がストップ、スカイライン丘陵の峰まで3mとなったがこの日一日中米軍は進撃できなかった。1620、米軍はもとの位置まで退却を開始した。一方184連隊右翼のG・F中隊は0640からOuki Hill(和宇慶高地)に進撃開始。左翼後方には第32連隊のG中隊が続いた。約500m進撃して和宇慶高地の前で日本軍の砲撃が突然開始された。



写真左から 米軍のOuki Hill攻撃/米軍 I 中隊攻撃発揮位置/米軍L中隊攻撃発揮位置/米軍戦車部隊攻撃場所/和宇慶正面の米軍攻撃
右端 4月19日の米軍攻撃図 : 和宇慶集落の位置、主要道路の位置などが現在と異なる。現在の道路はスカイラインの中央を貫ぬいている。

 4月20日
 東海岸の独立歩兵第11大隊正面においては、20日朝から和宇慶西方1キロの高地(157高地東500メートル付近,米軍名Ouki Hill)に戦車を伴う有力な米軍が来攻し、終日死闘が繰り返され、遂に同高地北側斜面は米軍に占領された。三浦大隊長は逆襲及び斬り込み隊によって高地奪回を企図したが成功しなかった。

早朝からOuki Hill(和宇慶高地)に対して集中攻撃が開始された。スカイライン丘陵は前日の戦闘にこりてそのままにしていた。0730ころ第184連隊第2大隊と第32連隊G中隊が進撃を開始。午前中は全く動けなかったが、火炎放射装甲車がOuki Hill(和宇慶高地)西側スロープの日本軍迫撃砲陣地を焼き払って一転した。このため184連隊が戦車を先頭にOuki Hill(和宇慶高地)、Hill178(157高地)東部に進撃した。一時は反撃の猛烈さに危機状態に陥ったものの、どうにか峰に前線を確立、G中隊はOuki Hill(和宇慶高地)にたどり着いた。夜、数度にわたり日本軍の反撃を受けたが撃退した。

4月21日
 昨20日和宇慶西方1キロの高地(Ouki Hill)を占領した米軍は、21日朝から同高地を東に下る稜線のわが陣地を攻撃してきた。わが守備隊は敢闘したが、遂に夕刻には全稜線を占領された。
 第32連隊F中隊は、0900ころからスカイライン丘陵への攻め降ろしを開始した。40分も前進すると丘陵の真ん中あたりにある道の両側が高く切り立ったところに出た。ここで猛烈な攻撃を受け進撃停止した。しかし午後になってF中隊は進撃を開始し1800までにほぼ全域を占領した。

米軍4月21日の攻撃

4月22日
 東海岸方面の独立歩兵第11大隊正面の米軍の攻撃行動はあまり活発でなかった。同大隊は157高地(Hill178)〜内間(101高地)〜掛久保の線を保持して米軍と対峙した。
 第32歩兵連隊はスカイラインの前面に陣地を確保したまま進撃しなかった。 

4月23日
 米軍攻撃不活発。
軍司令官は第24師団に幸地以東の防衛を、第62師団に前田高地以西の防衛を担任するよう命じた。これにより第62師団長は守備隊を撤収(157高地も撤収)させた。したがってこれより24師団による幸地・小波津の防御戦闘がおこなわれることとなった。

写真左から  155高地(Tomb Hill)から157高地(Hill 178)を見る、1985年撮影 : 戦時中の地形とほとんど変わらないと思われる。
         155高地から157高地を見る、2003年撮影
         157高地から155高地を見る、1985年撮影
         157高地から155高地をみる、2003年撮影