島尻南部陣地の戦闘 (首里撤退から摩文仁陥落まで)
首里からの撤退はおおむね順調に整斉と実施され、各兵団は計画した陣地配備に逐次つくことができた。兵力は約3万と推定されるが、戦力は実質的に極めて低下していた。戦闘部隊に置いては、戦闘員は当初の20%内外であり、現編成人員の大部は未訓練の後方部隊からの補充、防衛召集者であった。ただし大隊長以上の損害が少なく、これが最後まで指揮組織を保持して作戦指導ができた要因であった。
6月5日
与那原方面から南下した米軍は、早くも6月5日独立混成第44旅団正面の具志頭付近に出現した。新城南方の警戒部隊及び具志頭の前進陣地は6月5日から米軍の攻撃を受ける状態となった。独立混成第44旅団の左地区隊長平賀中佐は、海軍丸山大隊の一部を東風平南東地区に派遣して警戒部隊とし、陣地占領援護と友軍の撤退支援に当たらせた。
6月6日
6日朝世名城に滲透した有力な米軍が八重瀬岳北側に向かって攻撃してきた。丸山大隊などが来攻した米軍に急襲火力を浴びせ多大の損害を与えて撃退した。
96師団第381連隊第1大隊は八重瀬岳の西側の段々上りになっている地域の偵察を命じられた。そこでB中隊を偵察に出し、その左にC中隊を前進させた。日本軍はこの両中隊が射程内に入ってくると同時に機関銃、20mm砲を轟然と発砲した。退却を命じたが多くの戦死傷を生じた。
6月7日
〔東〕 新城南方の警戒陣地(第2歩兵隊第3大隊)は夕刻には馬乗り攻撃を受けるようになったため、同夜配備を大隊本部付近に収縮した。東風平南東地区にあった警戒部隊(丸山大隊の一部)は重囲の中で奮戦し、7日夜八重瀬岳陣地に撤退した。総員65名中43名の損害を出した。
独立混成旅団長は当初、具志頭付近を前進陣地としていたが、同地の重要性に鑑み、7日主陣地としこれを保持するよう独立混成第15連隊長に命じた。
第7師団第184連隊が玻名城95高地から北側に走る峰にそって陣地を構える日本軍の抵抗に直面した。この稜線は長さ800mで珊瑚礁岩が多かった。この丘陵は95高地から瞰制を受け、援護射撃がきいた。9日までの間で第17連隊(184連隊の北側を進撃)が1700m進撃した。
〔西〕 西方正面においては、6日に小禄の海軍部隊が壊滅したため、米軍の一部が糸満北東方の座波付近に出現してきた。
軍は当初南部陣地は北正面からの米軍の強圧を予想し、砲兵の主火力を第24師団正面に指向するよう準備したが、予期に反して戦闘は東正面から展開した。このため軍砲兵は急いで同方面に火力を指向して鈴木旅団(第44旅団)の戦闘に協力しなければならない状況になった。
6月8日
〔東〕 第44混成旅団正面は8日早朝から米軍の猛攻を受けた。新城の警戒部隊、具志頭台上の美田連隊第1大隊も多大の損害を受けながらも陣地を保持した。右地区隊(美田連隊)の前進陣地(富盛南側田原付近、第2大隊)は多大の損害を受けたため、同夜後退した。
〔西〕 米軍はわが警戒部隊と接触したが、一般的には攻撃準備中と看取された。
6月9日
〔東〕 第44旅団正面は戦車16両を伴う米軍の攻撃を受け、新城南方の警戒陣地は包囲され、同夜後退を命じられた。具志頭台地の美田連隊第1大隊にも一部の米軍が侵入してきたが夕刻までには撃退した。安里北側地区の美田連隊第3大隊の主陣地前にも米軍が逐次浸透してきた。第44旅団にはすでに戦車に対する速射砲は一門もなく、連隊砲もなく、わずかに旅団砲兵の榴弾砲3門のみであった。
6月9日0730攻撃を開始。目標は第32連隊第1大隊が玻名城95高地と、ごつごつした珊瑚礁の岩山。第7連隊第3大隊が安里村落の真北で八重瀬岳の麓の平地に足場を固めることになった。第32連隊第1大隊C中隊が百メートルも進撃すると、日本軍は激しい抵抗を示した。中隊は一時進撃を停止し、砲兵隊に95高地を砲撃させた。しかしながら機関銃陣地を撃滅できず、ついに夕刻には元の線に戻った。
第7連隊第3大隊は、開闊地が最大の難関であった。あらゆる援護射撃の下、2個中隊をこの開闊地を前進させたがI中隊のうちたどり着いたのは2個分隊。そのうち別の機関銃が射撃を開始し、ついに攻撃できる部隊は1個分隊になった。残りは水田の中で釘付けになり動くことができなかった。K中隊も同様であったが1330頃には八重瀬岳の南東端を確保することができた。
6月10日
〔東〕 第44旅団正面は10日朝から戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。米軍は具志頭陣地を制し、玻名城東側の91高地前方に進出した。具志頭陣地は分断孤立、安里北方台地にも米軍が進出し安里正面は危険な状況となった。 八重瀬岳北側からも米軍の攻撃を受け、大部は撃退したが、八重瀬岳北側断崖下の台地が占領された。
6月10日0600、戦車隊が前線に邁進した。第7師団には戦車大隊が、八重瀬岳攻撃の96師団には2個戦車中隊が配属された。沖縄戦の様相は一変した。
第32連隊第1大隊C中隊は先日と同じく玻名城95高地攻撃の任務を帯びていた。第2大隊は玻名城に進撃を開始した。C中隊は昼頃までに玻名城の山の北東端近くの2つの岩山にある陣地を残してほとんどの日本軍陣地を沈黙させた。この岩山も火焔放射器で攻撃しついには確保した。
〔西〕 糸満、照屋、大城森などの前進陣地が猛攻を受け、米軍は夕刻までに国吉北側、大里北側、與座西側、世名城の線に進出し、わが主陣地と戦闘を交えるようになった。
第1海兵師団第1連隊が與座部落の西側高地を攻略したが、その時の戦闘で125名の戦死傷者を出した。また第7海兵連隊は、照屋北側高地に到着した。
6月11日
〔東〕 具志頭、安里付近は11日も引き続き猛攻を受け、玻名城東方の91高地付近は米軍に占領され、玻名城部落、安里部落、安里北部断崖に続く主要陣地を辛うじて保持する状況となった。旅団長は91高地の奪回を図ったが、奪回はできず頂上近くで米軍と対峙した。具志頭陣地で抵抗を続けていた美田連隊第1大隊は11日夜、訣別電を発して総員斬込みを敢行し全滅した。
6月11日の朝、第32連隊第1大隊C中隊は先遣のB中隊と共に玻名城の95高地の北東端を攻め、戦車隊や砲兵隊も砲弾を浴びせた。そのため山の一部が砲煙で隠れ、日本軍の機関銃陣地も見えなくなったので、部隊は一時は進撃を停止した。この間指揮官が協議を行い、火炎砲戦車を使用して高地を攻撃することに決した。1100から攻撃を再攻。まず岸壁先端の真下の小さな岩棚にたどり着いた。火炎砲戦車に歩兵も追随し第1大隊は夕方までにこのテーブル型の山の北東端の日本軍を撃滅した。
第96師団第383連隊は、与座部落に到着。しかし猛烈な戦闘が続いたためついにその夜撤退した。第381連隊は八重瀬岳で最も険しく、高い所で進撃を阻止された。第381連隊は6日にも阻止されていたので、4日間にわたる砲兵射撃を行ってからの再攻撃であった。
〔西〕 第1海兵連隊は大里西方の96高地を目指したが激しい抵抗にあった。第7海兵連隊は国吉丘陵前面に到着。前線と国吉丘陵の間には長さ1kmにおよぶ平坦な土地があった。第7海兵連隊は6月11日敢えてこの平坦地に進出してみたが、予想通りに日本軍の機関銃射撃をうけて撃退された。
6月12日
〔東〕 12日未明南部一帯に深い霧が立ち込めた。あたかもこれを利用するように米軍の一部が八重瀬岳東方122高地北方地区に侵入し、第44旅団司令部(109高地)と左地区隊との連絡は途絶した。91高地、玻名城、安里地区でも終日激戦が続き、陣地は逐次浸食され、91高地西側斜面、玻名城部落、安里部落、122高地の線を辛うじて保持した。
軍に対し第24師団および軍砲兵から、八重瀬岳の米軍の撃退要求が届いた。しかし44旅団司令部からは「八重瀬岳方面に将校斥候を派遣したが敵影はない。122高地東側から米軍が突破侵入する気配があるが、旅団としては既に配兵してあるのでご安心願う」旨の報告があり、軍司令部は一時判断に苦しんだ。軍司令官は、軍予備としていた第62師団の右翼正面の増強を決意した。第44旅団長は配属された独立歩兵第13大隊を旅団右翼に、独立歩兵第15大隊を左翼八重瀬岳方面に部署した。
6月12日0400、第17連隊第1大隊、第3大隊が進撃を開始。今回は攻撃準備射撃を実施しなかった。出発と共に霧がかかり進撃は日本軍に発見されることなく0530には各目標にたどり着いた。その後、各中隊は日本軍を掃討し、0800第17連隊は八重瀬岳に強固な地歩を築いた。
96師団第381連隊は八重瀬岳と与座岳中間の鞍部に一部の兵力を侵入させた。
〔西〕 24師団正面も激戦が展開され、米軍の一部が国吉台地北西の一角に取りついた。
6月12日0300第7海兵連隊は国吉丘陵西端に対し攻撃を開始した。C・F中隊が先攻し比較的容易に丘陵の目標に達した。しかし到着と同時に日本軍の迫撃砲弾や機関銃射撃が開始された。連隊長は直ちに戦車を増援したものの進撃は阻まれて、丘陵上の2個中隊は取り残された。先攻の中隊からは救援の要請があったが、どの部隊もこの平野部を横切って丘陵に到着することは不可能であった。
米軍は煙幕を張って救援部隊を進撃させたが、日本軍はこの煙幕の中に機関銃弾を流し、結局救援2個中隊、戦車隊とも撃退された。
6月13日
〔東〕 第44旅団正面は、13日依然として激戦が続き、91高地、與座部落、122高地地区には米軍が滲透して来て右翼戦線は危機を告げた。
旅団長は第1線に兵力を増加して陣地の保持に努めたが、火器特に対戦車火器がなく、米軍戦車の傍若無人の活動を許し、わが損害は刻々と増加し、戦線は危機に陥った。左地区隊とは依然連絡がとれないままであった。13日午後には米軍戦車は158高地付近に出現した。
〔西〕 24師団正面は、昨日に続いて強力な米軍の攻撃を受け、左側国吉台付近(歩兵第32連隊第1大隊)においては、糸満〜国吉道を前進して来た米軍戦車を砲撃によって阻止したが、歩兵約150が国吉台地西方を迂回し、左大隊(第3大隊)との中間から国吉部落付近に侵入した。
6月13日米軍は6個中隊で行動を開始、しかし丘陵の下で身動きがとれなかった。13日から戦車隊が攻撃の中核となったが、平野部の水田の中には戦車が通れる道が1本しかない。したがって、日本軍の47mm砲などに狙われ、5日間で21両の戦車が破壊された。
6月14日
〔東〕 第44旅団正面は依然死闘が続いた。91高地及び玻名城付近の拠点で抵抗を続けていた独立混成第15連隊第4大隊も大隊長以下ほとんどが戦死した。14日夜、第15連隊長は第2大隊長に91高地の奪回攻撃を命じた。第2大隊は果敢に攻撃したが、大隊長以下死傷して奪回攻撃は失敗した。旅団の左地区隊長平賀中佐も孤立の中に奮闘していたが、14日地区隊本部が爆破され戦死した。
44旅団は仲座南側台地〜仲座部落〜122高地〜八重瀬岳156高地の線を保持した。なお、14日夜独立歩兵第13大隊(原大佐)が仲座南側に到着し旅団長の指揮下に入った。
96師団第381連隊は八重瀬岳頂上を占領した。
〔西〕 第24師団正面は、与座岳及びその西方高地を激戦の中確保した。最左翼、国吉台地及び真栄里北側台地はともに保持したが、米軍は両台地の中間から浸透し、わが部隊の側背から攻撃する状況となった。第24師団は軍司令部に対し八重瀬岳の崩壊防止を請求し、「米軍は八重瀬岳に侵入しつつある。混成旅団は何故これを放置しているのか。師団の右側背が危険であるので、作戦境地外ではあるが捜索第24連隊で撃攘させる。万一を考慮し右翼の歩兵第89連隊の陣地を与座岳を中心として158高地に退げる」と軍司令部に対し厳しい電話があった。軍は12日44旅団に増加した独立歩兵第15大隊に対し、八重瀬岳に前進攻撃を命じた。(通信の関係上旅団司令部を経ずして直接命令した)
6月14日0300からE・G中隊が進撃を開始。夕刻までに目標にたどり着いた。
6月15日
〔東〕 旅団司令部と中地区隊(122高地)との連絡が途絶した。旅団右翼は中座南側台地〜仲座南西端付近を保持して米軍の突破を辛うじて阻止していた。仲座付近に到着した独立歩兵第13大隊も15日から戦闘に加入したが、陣地設備の余裕もなく敵火に曝され多大の損害を受けた。
八重瀬岳方面の米軍は逐次増大し、15日1100頃から158高地を攻撃してきたが、歩兵第89連隊第3大隊基幹が善戦して同高地を保持した。八重瀬岳と与座岳の中間地区を占領していた歩兵第89連隊第1大隊は、八重瀬岳の陥落も影響し15日戦車を伴う米軍に突破されるに至った。
第44混成旅団参謀京僧少佐が32軍八原高級参謀に語った言葉
「今では旅団は手も足もでません。軍の右翼戦線を崩され、誠に申し訳ない次第ですが、各部隊長は空しく死んで行く部下を見殺しにする無念さに、皆男泣きしています。いくら戦っても、ただわが方が損害を受けるのみで、戦果が揚がらないからです。これは各部隊長の最後にあたっての私的意見ですが、もはや沖縄におけるわが軍の運命は尽きた。大本営はなんらの救援もしてくれない。残念ながら祖国日本も敗亡の途をたどることであろう。このときにあたり、我々はなんとか処置はないだろうか・・・と言うのです」。
〔西〕 第24師団は巧妙な砲兵の運用と果敢な斬込みによって連日米軍に多大の損害を与え、6月12日〜13日ころまでは、むしろ米軍を圧するの観があって実力を示したが、衆寡敵せず、いまやいかんともし難くなった。真栄里高地(歩兵第22連隊)も米軍の攻撃を受け、国吉台地(歩兵第32連隊第1大隊)は米軍の馬乗り攻撃を受けるようになった。
軍司令官は地形的に最も堅固と判断していた与座岳、八重瀬岳の中間地区が突破されるに及んで、第62師団主力を独立混成第44旅団正面に投入して東正面の米軍に最後の出血を強要することを決心した。
6月16日
〔東〕 第44旅団正面は、多数の戦車を伴う猛攻を受け、独立混成第15連隊本部(109高地東方)は重囲に陥った。旅団司令部の109高地前方においては、第2歩兵隊第3大隊が奮戦して米軍の一挙突破を阻止し、109高地およびその南側では歩兵第13大隊が奮戦していた。夜には独立歩兵第12大隊が109高地南方地区に到着した。また旅団長は中地区隊に158高地付近に後退を命じた。
第17連隊と第32連隊が、新垣村落東の153高地、仲座村落の南115高地を占領した。
〔西〕 与座岳および大里付近は歩兵第89連隊、工兵第24連隊などが健闘したが、16日夕には遂に米軍に占領され、同連隊は反対斜面でなお奮戦を続けた。右翼国吉台地は、引き続き馬乗り攻撃を受け、真栄里北側高地の一角は米軍に占領された。
96師団第381連隊が与座岳を占領した。
6月17日
〔東〕 109高地の旅団司令部は猛攻を受けるに至って主陣地は突破され、旅団の組織的戦闘は崩壊した。独立臼砲第1連隊は、122高地で連隊長以下が戦死し、久保少佐が残存者を集め158高地南東地区に陣地を占領した。しかし人員13名、既設陣地もなく終日砲火に曝され、夕刻までに久保少佐以下4名となり109高地司令部に戻った。かくて精鋭を誇った独立臼砲第1連隊も全滅状態となった。
〔西〕 米軍は真栄平東方高地、新垣北方高地に進出してきた。左翼国吉台地、真栄里高地は米軍の馬乗り攻撃を受けた。17日夕、真栄里南東73高地洞窟において歩兵第22連隊本部が爆雷攻撃を受け、連隊長吉田大佐以下全滅したとの悲報が軍司令部に届き、軍司令部は悲痛な気持ちとなった。
米第10軍は、6月17日の夕刻までに、国吉丘陵から具志頭村内の153高地、115高地の峰づたいに前線を確立した。これで、米軍は初めて、南の方に約12平方キロにわたる地域を占める日本軍防衛陣を望むことができたのである。日本陸軍の精神も、兵の士気もとたんに崩れ始めたのである。
日本軍の独立混成第44旅団は、本部の具志頭115高地を放棄した。
6月18日
〔東〕 第44旅団は分断孤立の中敢闘し、米軍の摩文仁突進阻止に努めたが、戦力はほとんど尽きていた。
〔西〕 第24師団は必死防戦に努めたが損害続出し、158高地南方地区まで米軍に進出された。
第32軍司令官は、18日夕訣別電を第10軍司令官宛に発電した。
153高地が陥落した。
6月19日
米軍歩兵は摩文仁東方数百メートルまで迫り、戦車は摩文仁89高地を砲撃する状況となった。左翼は米須付近まで進出され、各兵団との通信もほとんど途絶した。軍砲兵隊の大部は破壊され、弾薬も尽き歩兵戦闘のみとなり、わずかに高射砲をもって対戦車戦闘を実施して勇戦を続けた。軍の組織的戦闘は終了した。