首里周辺の戦闘 (大名の戦闘については「澤岻・大名の戦闘」参照)


5月20日
〔東〕 150高地地区の放棄を持って日本軍は戦線を後方へ退げた。
第24師団長は、歩兵第22連隊を師団予備とし、歩兵第32連隊を中地区隊とすることを命じた。
中地区隊の部隊はつぎのとおり。
  
  歩兵第32連隊(第2大隊欠、第3中隊、第9中隊欠)
  独立第29大隊(130高地で激戦、戦力低下)
  独立機関銃第3大隊(第2、第3中隊欠)
  独立機関銃第17大隊主力
  独立速射砲第3大隊
  特設第4連隊第1大隊 

なお左地区隊は石嶺高地防御戦闘中の第27戦車連隊であった。


〔西〕 那覇北側地区においては全正面米軍の攻撃を受けた。安里から崇元寺町方面の防衛に当たっていた独立混成第15連隊第2大隊は連日の米軍の猛攻に勇戦したが、戦力の低下が著しく、20日1400頃井上大隊長は最後の訣別電報を連隊長美田大佐に送り、20日夜主力を率いて斬り込みを敢行し、大隊長以下大部は戦死し、残存兵力は約30名になった。独立混成第15連隊右翼においても米軍の一部が松川北西部に進出してきたため、陣地を松川を中心とする地区に収縮した。



5月21日
〔東〕 中地区隊は後退を完了し、中地区隊で定められた陣地を占領した。
 
第77師団も第1海兵師団とさして変わらない状況であった。5月20日にフラットトップとチョコレートドロップ地区を占領した直後から激しい雨に見舞われた。この直後から第77師団は首里に向かっての戦線を前方へ進めることができなくなった。日本軍の抵抗は今までにも増して強力になり、全ての地形を支配した。ジェーン(またの名を3姉妹)、ドロシー、トムヒルは第77師団と直接対峙する日本軍の強力な陣地帯であった。ドロシーヒルの反対斜面は洞窟とトンネルが張り巡らされ、さらに後方地域からの砲迫撃の集中射によって要塞化されていた。第77師団第307歩兵連隊の次の目標はフラットトップから低くむき出しの渓谷を越えて400ヤードの「3姉妹」(3つの丘からなっていた)であった。遙か西の第306連隊は5月21日に第305連隊と交替して石嶺高地と第1海兵師団に対して強大な壁となっている大名丘陵の東の戦線上にいた。5月21日早朝から結果不運な攻撃となる戦闘が開始された。第307連隊A中隊はジェーン高地の前面手前で離ればなれになり、一部が降りしきる砲弾の中をフラットトップと石嶺丘陵のもとの位置に戻ってきた。第307連隊が前線に向かう全ての道は通行不能であり、最後の1000ヤードでは全てを人力で運搬するようになった。ジェーンヒルで失った人員よりもA中隊に補給品を運ぶ人員の方の死傷者が多くなった。ジェーンヒルへは21日から30日までついに進むことができなかった。

 第96師団第382連隊は第77師団との境界線上のヘン高地の麓を保持していたが、泥沼の陣地から動くことができなかった。日本軍は首里の東側にあるトム高地からこの地域を完全に瞰制下に置き、少しでも行動の兆候を見ようものなら迫撃砲と機関銃を撃ちおろしてきた。小規模な警戒を除いて行動はできなかった。泥と補給不足でここも士気が低下していた。第382連隊の東部戦線は首里複郭陣地東端に位置するオーボエ高地の顎のような突出部を越えていた。5月21日オーボエ高地の入口にいる第382連隊の部隊に辛酸の戦闘が開始された。次の週にかけてオーボエ高地の峰は手榴弾戦と白兵戦によって、その周辺や前面でさえも人のいない地域となった。

〔西〕 那覇北側地区においては、21日安里東側地区及び安里南側地区の陣地が米軍の攻撃を受けたが、わが有効な砲迫の支援火力をもあって米軍の攻撃を撃退した。




5月23日・24日
〔東〕 首里北側の大名、石嶺、弁ヶ岳正面における米軍の攻撃は、昨22日よりの降雨のため一般に低調であった。弁ヶ岳東方高地の米軍に対して、23日夜第24師団の一部(部隊不詳)が強力な反撃を加え、米軍を撃退して一部を奪回した。
 


5月24日午前1時、日本軍の1個小隊がオーボエ高地のC中隊とL中隊の間の間隙をつき、C中隊の3つの機関銃座を破壊することに成功した。オーボエ高地の麓の第1大隊の軽迫撃砲は両中隊の間隙に直ちに攻撃を開始し、約30秒に1発の射撃速度で4時間にわたって攻撃した。通信線は切断された。日本軍の迫撃砲によって電話線は全て切断されていた。海軍への無線連絡も激しい雨の音で聞き取れなかった。海軍の艦砲射撃も照明弾射撃もこの地域をカバーできなかった。午前3時30分までに日本軍の完全編成1個中隊が間隙を攻撃してきた。このうちの2個小隊がC中隊の左のA中隊を攻撃した。3箇所の機関銃座が破壊された。A中隊とB中隊はオーボエ高地から退却した。しかしC中隊の一部が果敢に頂上部を保持した。オーボエ高地上には手榴弾35ケースが残されていた。また迫撃砲弾も残りわずかとなった。午前5時30分までにオーボエ頂上部のC中隊の右翼機関銃座が日本軍によって奪取された。この時日本軍が別の攻撃をしかけてくる兆候があったが、幸いにも迫撃砲弾が再補給され、この企図を破砕することができた。日本軍がオーボエ高地に逆襲をかけている間、第362野戦砲大隊は560発の射撃を行って日本軍の猛攻を防いだ。日本軍の逆襲が終わったときには頂上や斜面には150の遺棄死体が残されていた。日本軍はオーボエ高地の反対斜面に穴を掘ってアメリカ軍の機関銃座からわずか25ヤードの所に留まっていた。24日終日両軍の手榴弾戦が続いた。日本軍の夜襲により大きな損害を出した第382連隊第1大隊は大隊の再編成に着手した。A、B、C中隊はC中隊長のもと1個中隊198名に編成された。5月24日96師団長ブラッドリー将軍は第383連隊第3大隊に対しオーボエ高地の第382連隊第2大隊の左翼に進出せよと命じた。この第2大隊はすでに24日のような日本軍の攻撃に耐えるにはあまりにも弱体化していた。

〔西〕 那覇方面においては、23日午後有力な米軍が安里付近で安里川を渡河南進してきた。わが部隊(特設第6連隊基幹)は壺屋町付近を保持して阻止に努めた。
24日、有力な米軍が那覇市に侵入した。首里西方の松川西方地区においては来攻した米軍に多大の損害を与えて撃退した。

5月25日
〔東〕 接戦が続いたが大きな変化なし。
〔西〕 那覇正面においては、米軍は壺屋町付近のわが陣地を攻撃してきたが多大の損害を与えて撃退した。首里西側の松川正面にも戦車を伴う米軍が来攻してきたが、独立第2大隊第2中隊、独立混成第15連隊第3大隊、第62師団輜重隊などが善戦して撃退した。

5月26日
〔東〕 第24師団長は第27戦車連隊、第62師団主力の転進に伴い26日防御部署の一部変更を行った。すなわち、中地区隊である歩兵第32連隊長に石嶺地区の旧左地区隊を併せ指揮し、石嶺以東弁ヶ岳にわたる間の防衛に当たらせ、独立歩兵第22大隊には平良町以西、独立混成第44旅団にわたる間の防衛に当たらせた。
〔西〕 戦線に変化なし。

5月27日
〔西〕 那覇正面には米軍の活発な攻撃行動はなく、ほぼ前線で現状維持であった。
独立混成第15連隊長は、那覇西側の松川付近の防衛に任じていた第3大隊を27日夜繁田川付近に後退させ、独立第2大隊第2中隊を松川地区に配備した。

 この日、第32軍司令部は首里司令部から津嘉山に後退する。

写真左から  司令部第1坑口/司令部第4坑口/司令部第5坑口
5月27日第32軍司令部は、5個梯隊に区分し後退を開始。すでに敵方の第1坑口〜第3坑口は使用できず、反対斜面の第4・第5から脱出した。

第4坑口に関しての記述
  「我々にささやかな自由を与えてくれた場所は、第4坑口の出口であった。ここは巨岩が懸崖状に出口を覆い、空中に対してはもちろん、東、北、西、の3方向に対しても、遮蔽掩護が利いた。僅か3坪大の地域ではあるが、安全な上に、正午過ぎからは、日光浴もできる。牛島将軍を始め、誰も彼も、暇を見てはここに落ち合った。」

第5坑口に関しての記述
  首里からの後退にあたり 「第5坑道の階段を下りたあたりから出発を待つ将兵が充満している。各梯団の出発は混雑せぬよう時間で規制してあったが、砲撃の間断を見ての出発だからなかなか計画通りにはゆかぬ。『高級参謀だ。通せ』と無理矢理坑口に向かって押し進む。ようやく坑口に接近、一度見失った司令官の後ろ姿を見つけたが、これ以上は近づけそうにない。1915出口付近に落下していた砲弾がやや間遠になったのを機に、牛島将軍は決然として進発され、第4梯団の相当数はこれに続行した。」




写真左から  旧一日橋/新一日橋/山川橋/真玉橋
いずれも米軍の交通遮断射撃の目標であった。交通の要衝に24時間艦砲射撃を加え、むしろ日本軍の増援阻止を狙ったものであった。


5月28日
〔東〕 石嶺・弁ヶ岳正面は米軍と接戦しながらも陣地を保持した。

5月29日
〔東〕 左地区・中地区の線は戦況に大きな変化なく陣地を保持した。
第24師団の主力の撤退が開始され、残置部隊で現戦線を保持しつつ主力は29日2000頃から陣地を徹し、津嘉山に撤退した。第32軍司令部も撤退を開始し、摩文仁に後退した。
残置部隊は、歩兵第32連隊一法師隊が弁ヶ岳方面、特設第4連隊第2大隊が石嶺高地、歩兵第89連隊第3大隊が宮平北側高地、独立歩兵第22大隊が平良町、大名高地、首里西側地区を保持した。
尚、南西地区においては宮平東側高地〜87高地〜仲間の陣地線を確保した。

〔西〕 那覇方面においては、払暁から牧志町及び35高地地区で激戦が展開された。35高地付近は確保したが、牧志付近においては壺屋町付近まで米軍が進出してきた。29日午前米軍の一部は首里西側から、わが配備の間隙を縫うようにして、首里城址の一角にたどり着いた。この付近は第62師団の抽出や独立混成第15連隊第3大隊の後退などにより弱点となっていた。

 28日の偵察により、大名丘陵の南側の日本軍が以前より少なくなっているとの報告が、第1海兵師団第5連隊にもたらされた。5月29日0730、第5海兵連隊第1大隊は進撃を開始し、首里高地(山川、寒川付近)を目指した。この高地は簡単に占領できた。しかもさらに先の首里城址まで全く防備がなされていなかった。A中隊は首里城址目指して進み、ついに1015首里を占領した。

5月30日
〔東〕 弁ヶ岳、石嶺高地、大名高地方面も30日攻撃を受けわが残置部隊は奮戦したが、米軍は逐次滲透して来た。独立歩兵第22大隊長は、首里城趾に侵入した米軍を撃攘するため、一部をもって平良町、110高地の守備に当たらせ、残余に首里城趾の米軍攻撃を命じた。31日の朝にかけて首里城趾の一角を確保して部隊の撤退行動を容易にした。
 南西では夕刻には宮平東側高地は米軍に占領された。わが部隊は宮平北側高地〜兼城87高地〜仲間の線を保持した。
〔西〕 那覇方面においては、30日強力な米軍の攻撃を受け35高地は馬乗り攻撃を受けるに至ったが、與儀周辺の高地、松川南側の高地を保持して米軍の進出を阻止した。

 第306連隊は首里城西方の100m高地を攻撃したが撃退された。
首里の東、日本軍が2週間にわたって首里防衛本部の要塞として使用したドロシー高地は、第77師団第306連隊第3大隊が攻撃した。しかしこの高地の麓で先遣小隊は日本軍の砲火で釘付けにされ、全員が負傷した。つづいて1個小隊が進撃、ついに1個分隊が右端の峰に到着、援護下に2個中隊が頂上に達し、続いて反対斜面を掃討した。さらに第77師団は左側のジェーン高地を奪取、午後5時にはトム高地を占領した。
 5月22日から28日にかけて第96師団第383連隊のコニカルヒル西部の防御地帯の一角ラブ高地への進攻はことごとく失敗に帰した。敵の弱点を探る偵察行動をおこなっただけでも多くの人員が戦死した。ましてアメリカ軍部隊が生命の危険を冒すことなくしてコニカルヒルの西斜面に進むことは不可能であった。特にコニカルヒル近傍のゲートウェイヒルは敵は常に増援部隊を派遣し、警戒を厳にしていた。首里に向かうことになるコニカルヒル頂上から西に広がる地域には一歩も立ち入れなかった。敵は強固に陣地を保持した。
 5月30日、第381連隊第3大隊は、コニカルヒルの西側斜面を下りていったが、道路の切り通しのある丘付近で、日本軍の死体を発見した。第383連隊第2大隊はついにラブ高地を占領した。

5月31日
 首里はほとんど米軍に制せられ津嘉山収容陣地を占領していた歩兵第32連隊は首里南東地区に進出して来た米軍と交戦するに至った。第24師団の残置部隊は、各方面から浸透した米軍の包囲を受けて苦戦したが、31日夜米軍の間隙を縫って撤退した。
 津嘉山東方地区は兼城北側高地、喜屋武東側87高地、高平北側高地は米軍に占領された。今や山川(特設第3連隊)、神里(戦車第27連隊)、高平(独立歩兵第11大隊)、目取眞(歩兵第63旅団司令部、特設第4連隊)、大城(独立歩兵第13大隊)でかろうじて進出を阻止していた。
 西部戦線の独立混成第44旅団は、旅団予備であった海軍丸山大隊を繁田川、識名、国場付近に残置して旅団主力を後退させた。残置部隊となった丸山大隊は6月1日米軍と激戦を交えた後、1日2200陣地を徹して武富に後退した。総員220名中120名の損害を生じた。

写真左から  収容陣地北西面/収容陣地北面/収容陣地東面