我如古・西原・142高地(ロッキークラグ)の戦闘


4月5日
 独立歩兵第14大隊の主陣地(第4中隊)は5日朝から戦車を伴う優勢な米軍の攻撃を受けた。守備部隊は機関銃、速射砲と協同し、戦車3〜4両を擱座させ善戦したが、陣地の一部は突破された。

4月7日
 独立歩兵第14大隊正面においては、左第4中隊は昨6日以来主陣地内に敵が侵入し混戦状態を続け、陣地は分断されながらも我如古北東高地、120メートル閉鎖曲線高地(棚原北東2キロ、Triangulation Hill)拠点によって奮闘した。大隊本部との連絡は絶え大隊本部も状況を把握できなかった。右第5中隊の北上原陣地(161.8高地南西1.5キロ、Red Hill)では戦車約15両を伴う米軍の攻撃に対し、巧みに歩戦分離を図り、戦車3両を破壊し、二回にわたって米軍を撃退したが遂に同地は占領された。 

4月8日
 我如古北側陣地(第4中隊)付近は混戦を続け、我如古東側及び我如古南側高地を保持して米軍の進出を阻止した。南上原陣地(第5中隊)の一角(142高地東800m付近、Triangulation Hill)は、激戦の末夕刻には米軍に占領された。

4月9日
 独立歩兵第12大隊(独立歩兵第14大隊配属)正面の142高地陣地は9日米軍の猛攻を受けたが、激戦ののち撃退した。我如古正面においては、攻撃前進した米軍を我如古南東の陣地及び西原高地陣地から有効に阻止した。
  *142高地には独立歩兵第14大隊第1中隊、第3中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊、および独立歩兵第273大隊(13日独立歩兵第13大隊へ配属)が布陣していた。第2中隊は西原北側高地(我如古南側高地)、第4中隊は我如古北東高地、第5中隊は155高地に布陣した。

4月10日
 我如古正面の米軍は攻撃を再開し、その一部は西原高地北側谷地に進出して来た。我如古南東側高地陣地(独立歩兵第14大隊第2中隊等)は正午ころには米軍の馬乗り攻撃を受けるに至った。わが部隊は米軍に対し、急襲火力を加え、逆襲を実施し、臼砲、迫撃砲の有効な支援を受け夕刻までには撃退した。142高地陣地の守備隊は同陣地を確保して米軍の進出を阻止した。
 第96師団の第382歩兵連隊も4月9日から12日までほとんど動くことができなかった。第382連隊は10日までに右から第2大隊、第1大隊、第3大隊の3個大隊並列で態勢を完了した。西側の第2大隊は5号線沿いの第383連隊と若干ながら連繋をとっていた。東側は第7師団第184歩兵連隊と大きなギャップがあった。第382連隊地区の地形は「錯雑」と言うのが特徴であった。敵は西原の南の高地帯と同様、我如古の南側に北東から南西に細長く走るTombstone Ridgeを要塞化していた。連隊の右翼は嘉数高地に連なり、5号線の東は例の渓谷の上流部であった。
 第382連隊の攻撃は第381連隊と第383連隊が嘉数を攻撃している4月10日に焦点が定められた。第382連隊の攻撃は3個大隊並列で南西に向けられた。西側の第2大隊は正面や側面に激しい攻撃を受けながらも渓谷を越えて550mほど進んだ。東の第3大隊はTombstone Ridgeに踏み込んだが降り続く雨で戦車が動けなくなり、視程も下がってしまった。そこに敵の迫撃砲、機関銃、47mm砲の激しい射撃を受け、ついに宜野湾道の北の攻撃開始線まで撤退することになった。
4月10日は第382連隊は並列の戦線の中央部で最大の損害を出した。第1大隊長のジョンソン中佐は連隊の前面に横たわる敵支配地域のTombstone Ridgeを攻撃した。0840までにA中隊はこの丘の北の突端部にとりついた。しかし丘の急な斜面からの短射程火器や砲迫射撃により前進を阻止された。ジョンソン中佐は丘を北西から攻めるためにB・C中隊を我如古西側から迂回させた。日本軍はB・C中隊の動向に一瞬躊躇したが、すぐに15分間の砲迫、トーチカや塹壕からの集中射撃を実施した。大混乱が起こった。反対斜面からは至近距離で機関銃の猛射が始まった。アメリカ軍は火焔放射器を使用して応戦したが日本軍も同じく火焔放射器を持ち出した。台上の掩蓋が燃え上がった。ジョンソン大佐は全く動きのとれない北側のA中隊(他の2個中隊は南西に位置した)を救出しようとした。だが全くどうにもならなかった。北東翼で日本軍の機関銃が停止したために一瞬間隙ができたが、そこから脱出できたのはたった1名であった。右翼のアメリカ軍部隊は丘の少しでも足がかりを付けようと絶望的な状況の中、ほんの少しばかり前進した。1415までにジョンソン大佐はこの攻撃はこれ以上無理だと判断し、この地域から引き揚げることに決した。部下たちは我如古の北側の高地帯に秩序だって後退した。撤退中も敵迫撃砲弾が落下したが、彼らは冷静であった。彼らは口をきくこともできないくらいに疲れ果てていた。
 第382連隊の4月10日の悪夢の攻撃以降、軍団が19日に攻勢をかけるまで再度攻撃することはなかった。


4月11日〜15日
米軍の攻撃不活発

4月16日
 我如古南東側高地陣地に対し、戦車を伴う米軍が2回にわたって攻撃してきた。わが守備部隊は戦車数両を擱座させ撃退したが、わが損害も多大であった。
4月17日〜18日
米軍の攻撃不活発。

4月19日
 西原高地、我如古東側高地、142高地(Rocky Crags)、南上原高地にわたる正面は独立歩兵第12大隊長(賀谷中佐)の指揮する独立歩兵第12大隊、独立歩兵第14大隊を基幹とする部隊が防御を担任していた。 19日米軍は0600頃からわが陣地に猛砲撃を加え、0630頃から全正面を攻撃してきた。
西原高地は西側及び北側から米軍の猛攻を受け、同地付近所在の独立歩兵第14大隊本部、同大隊第2中隊、独立機関銃第14大隊本部、同大隊第2中隊主力、独立速射砲第22大隊本部、同大隊の一部、独立臼砲第1連隊第5中隊、迫撃中隊などが勇戦したが、米軍は逐次西原高地頂上近くに進出して来た。独立歩兵第14大隊長は予備隊であった同大隊の第1中隊(谷川中隊)を増強し、拡大隊本部も近接戦闘を実施し、夕刻までには米軍を撃退して西原高地を確保した。  
 我如古南東側高地(Tombstone Ridge)の陣地(独立歩兵第14大隊第2中隊の一部)も猛攻を受け、後方及び側方からのわが火力支援を得て勇戦したが、西側斜面は米軍に占領された。
 142高地(Rocky Crags)の陣地(独立歩兵第12大隊、独立歩兵第14大隊の混合守備)も0700頃から攻撃を受けたが、守備隊は米軍の近接を待って迫撃砲、機関銃の不意急襲射撃を加えて撃退した。
 19日夜142高地(Rocky Crags)所在の独立歩兵第14大隊の部隊は、大隊命令により西原の大隊本部に撤退した。

 米第96師団は第382連隊が左翼で我如古付近、第381連隊が右翼で西原方面に向けて攻撃開始。第382連隊はTombstone Ridgeと棚原丘陵の占領、第381連隊は西原の山の占領を企図した。この第381連隊第3大隊は嘉数と西原の中間を攻撃する第96師団の最右翼であり、師団左翼より1.5q先に進んでいた。我如古・西原地区に対峙する日本軍は独立歩兵第14大隊と独立歩兵第12大隊で、第一線には第1軽機関銃大隊が配置され、総員1200名の兵力であった。
 19日、我如古の前面にいた第382連隊第2大隊は、0640進撃を開始。まもなく前方にある低い連丘を占領したが、日本軍はほとんど見られなかった。
 我如古東方にいた第382連隊第1大隊は、右翼をC中隊、左翼にA中隊を配し挟撃戦の隊形でTombstone Ridgeに来るまで何らの抵抗も受けなかった。丘は高さ20m、長さ1qくらいで、付近ではひときわ目立った。A・C中隊がこの近くに前進するやいなや、丘の上の日本軍はたちまち静寂を破った。C中隊は機関銃や迫撃砲で前進を阻まれ、A中隊は手榴弾でその場に釘付けにされた。彼我の激しい攻防戦が続き、正午A中隊は西側スロープに突撃を敢行し、頂上まで攻めたてたが、反対に降りることも留まることもできなかった。激しい戦闘の末、日が暮れるまでに第1大隊が占領した地域は、丘の北西端を越えた地点と西側スロープの一部であった。
第381歩兵連隊第1大隊は、我如古北方の位置から村落の西部を通過して進撃を開始。村落にさしかかったとき、我如古南東部の日本軍から機関銃掃射を受けた。左翼にいたC中隊は、ちょうどTombstone Ridgeの近くにいたため、頭上からまともに機関銃に狙い撃ちされ、中隊は後方に退こうとしたが、退却路でも攻撃され夕暮れまでに進むことも退却することもできなくなった。
 第381歩兵連隊第3大隊は、第1大隊と並列での攻撃を計画していたが、第1大隊の進撃が頓挫したため、単独での攻撃となった。進撃開始後窪地にさしかかったときに、西原丘陵や墓の中から一斉射撃を受けた。その中で2個小隊が0830までに西原村落の端にある丘の頂上まで進撃することができたが、ここで進撃は阻止された。K中隊では中隊長が3回代わり、山腹に穴を掘って援軍を待つしかなかった。西原丘陵は、その西端からの機関銃および嘉数からの敵弾で前面を覆っており、進撃は困難であった。

 米軍第7師団は、4月19日、西原村千原のRocky Crags(142高地)に攻撃を試みたが、ここには日本軍の堅固な陣地が控えていた。岩山は高く、その陣地からは、上原高地への北西部接近路もカバーすることができた。陣地は、200mほど東方の高台に機関銃をすえ、南東はHill178(157高地)、南は棚原丘陵、西は高台に長距離機関銃と迫撃砲で防衛戦を張っていたが、千原高地それ自体は、洞窟やトンネルで蜂の巣のように縦横に壕を通してあった。第184連隊K中隊はロッキークラグス北端の岩山の真下にいた。19日朝、左のI中隊と共に進撃を開始。約200m前進した0730に日本軍の猛攻を受け両中隊とも釘付けになった。正午にはK中隊はロッキークラグスの最北端東斜面を退却した。

4月20日
 西原高地は20日早朝から米軍の攻撃を受けた。これに対しわが迫撃砲、機関銃、臼砲の支援を得て米軍に多大の損害を与えたが、米軍は高地頂上北側に進出し、西原陣地のわが部隊と至近距離で相対した。
 我如古南東側高地(Tombstone Ridge)のわが陣地は昨19日西半部を米軍に占領されたため、20日早朝奪回攻撃を行ったが失敗した。その後、同高地は遂に米軍に占領された。
 142高地(Rocky Crags)のわが陣地は20日米軍の猛攻を受けたが善戦し米軍を撃退して陣地を確保した。

 4月20日早朝、第382連隊第1大隊は、前日占領したばかりのTombstone Ridge(我如古南東側高地)の奪還反撃を受け、第3大隊がこれにかわって、0730、L中隊が盆地の北側から南側陣地を攻撃した。激しい戦闘が一日中続いた。日本軍は頑強に陣地を守ったばかりでなく、迫撃砲を撃ちながら銃剣をかざして反撃に出た。ついに1700、L中隊は32名の犠牲者を出し後退を決意した。一方I中隊は、墓地地帯を楯に進撃し、日本軍を殲滅しながら南端に到着、支援砲撃でL中隊救援に間に合った。
 第381連隊第1大隊と第382連隊第3大隊は、1100から一斉攻撃に移行した。この攻撃は攻撃準備射撃をおこなわなかったため日本軍の不意を突いた。1125、第381連隊第1大隊A・B中隊は西原丘陵の頂上に達した。しかし第382連隊第3大隊は墓地地帯を突破できなかったため、丘陵上の第381連隊第1大隊は、日本軍の砲火にさらされることになった。救援にはC中隊が向かったがA中隊の元に着いたのは1600であった。
 西岡丘陵頂上を占領したのを見て、第381連隊長は第2大隊に対し、1300から攻撃を開始して丘陵の右翼に回るよう命令した。ただしこの場所は、嘉数の日本軍から丸見えであり、猛烈な砲撃を受けて進撃が頓挫したが、穴を掘って隠れた。
 20日は重砲弾の炸裂音、激しい日本軍の機関銃声で、米軍の中には気が狂うものがかなり出た。4月20日の戦闘では、第96師団と第27師団の損害は日本軍より大きかった。米軍の被害が日本軍の被害を上回ったのは、沖縄戦を通じてここ以外にはなかったのである。 

4月20日のRocky Crags攻撃(142高地)では、一歩も進撃することができなかった。第7師団長アーノルド少将は、この山こそ上原高地のカギであるとの結論に達した。師団は主力を右に移動させて、このあたり一帯に兵力を集中し、第17歩兵連隊のB中隊は、20日の1630、第184連隊に回されて戦線に並んだ。米軍はわずかに進撃できたが、日本軍の手榴弾を恐れて退がり、その夜は塹壕を掘って待機した。

4月21日
 西原高地は昨20日頂上北側に進出した米軍と早朝から近接戦闘を展開し、一時頂上付近を米軍に占領されたが善戦して撃退した。棚原北側高地に来攻した米軍に対し三次にわたり昼間逆襲を決行し、その攻撃を阻止した。
 142高地(Rocky Crags)は、戦車、火焔戦車を伴う米軍の攻撃を受け、接戦となり陣地の一部は米軍に占領される状況となったが、夕刻には米軍を撃退して陣地を確保した。

Tombstone Ridgeの第382連隊第3大隊は、第1大隊をそのままTombstone Ridge南端に残し、第381連隊の位置を通って西原丘陵に着くよう大きく後方に回って戦線に着いた。東方から前進を開始したが1245、日本軍から反撃を受けた。1回目の反撃は撃退、2回目はまったくの混戦状態に陥ったが、かろうじて撃退した。第3回目の反撃は西原村落から南へ350mほど離れた143高地から、1515に開始されたが、これも撃退した。第383連隊第3大隊が第382連隊第3大隊を救援しようとその左翼から攻撃したが撃退された。兵力半減した第382連隊は、翌日第383連隊と交替した。なお、被害の少なかった第382連隊第2大隊は、第383大隊に編入された。
 第381連隊は第1大隊を左に、第2大隊を右翼に配置した。丘陵は勾配が激しく戦車の使用はできなかった。0630より攻撃開始。第1大隊が丘陵の頂上を登り終わったときに、日本軍の猛反撃を受けた。嘉数高地頂上と西原丘陵の南から撃ち出す日本軍の機関銃弾は十字砲火となった。1400煙幕が張られ、米軍は戦死戦傷者をかついで、後方陣地に引き揚げた。 

写真左から  Tombstone Ridge南東斜面/米軍位置から西原高地/米軍西原攻撃/米軍攻撃図

 142高地(Rocky Crags)、第184連隊のB中隊は、21日攻撃に出たが、まもなく激しい機関銃の反撃を受けて進撃を阻止されてしまった。そのため戦車や火焔砲装甲車が出動し、岩山北側を西側から至近距離で攻撃、歩兵部隊は、こうして岩山北部の西側を占領することができた。米軍が登った峰の向こう側では、日本軍の話し声も聞こえた。この日本軍を撃退しようと米軍はしのび寄ったが、先頭の一人が姿を現したとたん、彼は顔面を撃たれて即死した。もうそれ以上の進撃は不可能であった。千原南部を、西側から攻撃していた戦車隊と歩兵隊も、ともに失敗して、その日の朝B中隊はついに出発地点まで後退せざるを得なかった。

4月22日
 西原高地においては22日依然として頂上付近至近距離で米軍と戦闘を交え、敢闘して米軍の進出を阻止した。この日、西原高地と棚原高地の中間の鞍部に対する米軍の攻撃が活発であったが、隣接友軍陣地からの側射火力に支援され鞍部の陣地を確保した。
 142高地(Rocky Crags)は午前近距離から15榴砲の射撃と同時に、戦車、火焔戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けたが、有効なわが砲兵、迫撃砲の支援火力を得て米軍を撃退した。この夜賀谷大隊長は142高地の守備隊を棚原付近に後退させた。

 4月22日、第383連隊は西原丘陵に向かって攻撃態勢をとり、窪地の「The gate」めざして進撃を開始した。この「The gate」の左側には棚原高地に続く稜線がそびえていた。第383連隊第2大隊は、右翼方面で1100丘陵を攻め下って、「The gate」の方へ向かった。前日まで喧噪を極めていた西原村落は、この日E中隊が何の苦労もなく占領し、G中隊も143高地に対面する高台を占領した。第3大隊は「The gate」を攻撃したが、ほとんど前進できなかった。 

 142高地(Rocky Crags)は22日第31野砲大隊のB中隊は、142高地から750mの地点に155mm榴弾砲をひっぱてきて、東部から、7回にわたって砲撃を加えた。巨岩が崩壊し、大きな岩の塊が飛び散った。日本軍はこの砲めがけて機関銃弾をあびせ、米兵の砲手2名が即死、他の兵は地面に這いつくばった。戦車隊と歩兵が進撃を開始し、丘の西側の開闊地を横切った。火焔砲戦車を先頭に丘の麓にとりついたが、日本軍の機関銃、迫撃砲、手榴弾による反撃で後方に退却せざるを得なかった。戦車一両は大砲の直撃弾を受け、ついに正午B中隊は攻撃を中止。1600の攻撃再攻のため中隊を再編成し、負傷者を後送した。この日の午前はあまりに激しい日本軍の機関銃弾のため移動は不可能だった。したがって曲射砲を主体として43発を攻撃目標に撃ち込んだ。
 1600、2個小隊が丘の西側に沿って再び攻撃を再開、中型戦車3両、火焔砲装甲車3両が先頭に立ち、Rocky Cragsの陣地に砲撃を加え、目標を焼きつくしながら進撃した。歩兵も続いて進撃、日本軍が弾を装填するときのカチッという音が聞こえるところまで肉迫した。反撃はいよいよ激しくなり、砲弾や迫撃砲、手榴弾が、ふたたび雨あられのように頭上から降りそそいできた。米軍はこの戦闘で31名のうち18名も犠牲者を出し、また戦闘に耐えうる兵士はわずか6名しか残らなかった。
 この日、日が暮れるまでに第17連隊B中隊の兵力は、丘の2日間にわたる戦闘の結果、40%に減少した。同じく第184連隊のほうでも日本軍の砲火網にさえぎられて、まったく進撃不可能であった。B中隊はついに兵力尽き、これにかわって第17連隊第1大隊が攻撃部署についた。

写真左から  157高地(Hill 178)から142高地/142高地を東から/142高地を西から/米軍撮影写真142高地



4月23日
 西原及び棚原の高地帯においては23日激戦が続き、わが部隊(独立歩兵第12,第14大隊基幹)の戦力は極度に低下していたが、勇戦してかろうじてその陣地を保持した。

第24師団の北部戦線加入に伴い、第62師団は西部地区へ後退し、代わって第24師団は幸地地区を第一線として布陣した。

 火焔砲戦車、ブルドーザーにより、「The gate」付近の西方まで進撃していった。しかし歩兵の進撃はあまり芳しくなく、高台の日本軍は頑強に陣地を固守して、米軍の進撃を阻止した。
 142高地は、23日第17歩兵連隊第1大隊が、あらゆる兵器を使い、火焔砲戦車が焼きつくしてから攻撃開始。今度はほとんど抵抗がなかった。142高地Rocky Cragsは、23日1030、ついに米軍の手におちた。しかしその代償は高かった。4日間の戦闘で、第184連隊の第3大隊は186名の犠牲者を出し、第17連隊B中隊は2日間で57名の犠牲−合計243名の将兵が戦死したのである。

写真左から  Gate近景/Gate遠景/1985年撮影Gateを北から見る。あたり一面原野が広がっていたのだが。