前田高地の戦闘

4月25日
 仲間、前田の高地に対し、米軍は猛砲撃を加え、飛行機によるナパーム攻撃を行った。(4月24日に戦線整理で嘉数・西岡地区の第一線を後退、米軍が一挙に浸透してきた)
 米軍第96師団は、幸地から150高地を左翼第382連隊、前田高地を右翼第381連隊が展開した。同師団ではこの日一日中、この付近一帯の地形を研究して、日本軍陣地があると思われる地域に、砲撃や空爆を浴びせた。第381連隊作戦区域だけで、36門の大砲が1616発の砲弾を撃ち込み、空からはナパーム弾を投下して丘陵一帯を焼きつくした。

4月26日
 26日0600頃から米軍は猛烈な砲撃を仲間、前田、幸地の地区に集中し、1000頃から全正面にわたって攻撃を開始して来た。仲間・前田の高地帯においては接戦激闘となり、頂上付近の争奪が繰り返された。正午前後から前田東方高地の陣地(独立歩兵第11大隊基幹、23日に和宇慶より後退したと思われる)は戦車を伴う米軍に突破され、米軍の戦車及び火焔戦車は前田部落東端付近に侵入し、前田高地のわが陣地を背後から攻撃する状況となった。また仲間部落南端付近にも一部の米軍が侵入した。この戦況を憂慮した軍司令官は26日1600第62師団長に対し「戦車を伴う敵は1300以降前田の南方及び東方地区に侵入しつつあり。第62師団長は諸隊を急派し前田に侵入中の敵を攻撃し徹底的に撃攘すべき」旨を命令し、また同時に軍司令官は第24師団長に対し「第24師団長はその作戦地境にかかわらず第62師団の戦闘に協力すべき」旨を命令した。軍司令官は前田付近に侵入した米軍を撃滅するため、26日夕第24師団長に対し「軍は前田付近を突破せる敵を粉砕せんとす。第24師団は今夕首里北東方地区に主力を集結すべし」との旨を命令した。
 第24師団長は軍命令に基づき26日夜、歩兵第32連隊長に対し「1個大隊を前田高地に派遣して同高地を占領確保し、連隊主力は首里北側地区へ進出すべき」ことを命じた。また歩兵第22連隊長に対し、左側第62師団との作戦地境方面の防備強化と第62師団の戦闘を支援すべきことを命じ、歩兵第89連隊長に対しその主力をもって首里南東側地区への進出を命令した。

 前田高地攻撃が開始された。米軍は進撃にあたっては、さして困難な目にもあわなかったが、第381連隊のG中隊が、やっと丘の頂上にたどりついたとたん、日本軍の攻撃を受け、ものの2,3分たたないうちに、18名の犠牲者を出した。前田高地での日本軍の防衛戦術は完璧であった。丘の前面は守らず、相手を容易に登らせ、頂上まで登り詰めたところで猛烈な攻撃を浴びせた。
 ニードル・ロックのF中隊は、梯子をつくって丘陵の頂に登ろうとしたが、頂上に達すると同時に犠牲者が出た。E中隊は、150高地の南にある前田の小高い丘を奪ろうとした。だが丘の上に立つと同時に日本軍の猛射を受けたため、煙幕弾を撃ち込んで中隊は退却した。
 第383連隊の一部が150高地と152高地の頂に到達、日本軍を攻撃した。戦車隊や火焔放射装甲車は、今や前田高地の端に進出して来た。







4月27日
 米軍は早朝から引き続き全正面に攻撃してきて各所に激戦が展開された。
前田高地頂上付近は昨日と同じように彼我争奪の死闘が続けられ、戦車を伴う有力な米軍は前田北東高地から前田部落に侵入して同部落付近を占領し、前田高地を背後から攻撃した。前田高地付近のわが部隊は苦戦しながらも頂上及び南斜面を確保した。
 第24師団長は27日歩兵第32連隊長に前田高地への進出を命ずると共に、歩兵第22連隊長に対し、歩兵第32連隊に連携して前田東方高地の占領を命じた。両連隊の戦闘地境は首里城趾、114.5北方高地西方300m鞍部を連ねる線とされた。歩兵第22連隊長は道連隊の左第一線の第2大隊に前田東方高地の占領を命じた。
 前田正面の防衛責任は第62師団の歩兵第63旅団であったが、26日以来米軍は前田部落付近に進出し憂慮すべき状況となったため、軍はこの方面に歩兵第32連隊の主力及び歩兵第22連隊の一部を投入するように部署した。軍は27日前田地区の戦闘を統一するため、前田正面を第24師団の担任とし、歩兵第63旅団を第24師団長の指揮下に入れることを第62師団長に内示した。第62師団長は歩兵第63旅団の戦力が消耗した現在、本属師団長の手許で最後まで戦わせたいこと、また幸地付近の陣地線が軍命令と異なっていること、4月12日の攻勢における第24師団の行動が消極的なことからみて第24師団に対する不信感をあげて、歩兵第63旅団を第24師団長の指揮下に入れることに反対した。このような経緯があって、両部隊は協同関係のまま戦闘を続けた。

浦添丘陵の左翼で、山並みが急に南西に曲がっているところがあり、ここで第381歩兵連隊第1大隊と第383連隊の一部は、第763戦車大隊と第713火焔放射装甲車隊の支援を受け、150高地と152高地のあいだの窪地を進撃していった。米軍は血みどろの戦闘を続けながら、さらに前田南端に侵入したが、ここで猛烈な反撃にあって、進撃が停止した。丘の上にトーチカがあり、これがF中隊とG中隊の合流を阻んでいたので、米軍は集中攻撃を加えた。しかしこの試みは失敗に終わった。この日
150高地と152高地近くの前田でわずかばかり進撃した以外は、一つの土地さえも長時間占領しているわけにはいかなかった。


4月28日
 歩兵第22連隊長は前田東側高地奪回の師団命令を受領し、連隊の左第一線の第2大隊に同高地の奪回を命じたが、同大隊正面は28日米軍の強力な攻撃を受けたため前田東側高地の奪回攻撃は実施できなかった。安波茶付近は0900頃から戦車4両を伴う約200名の米軍が来攻し、さらに午後2回にわたって攻撃してきたが撃退した。前田高地及び前田部落地区においては終日近接戦闘が行われ、わが方は多大の損害を生じつつも前田高地を保持した。首里−宜野湾道の東側に沿う地区に戦車8両を伴う有力な米軍が侵入してきたが、第62師団輜重隊及び所在部隊は奮戦して撃退した。
 歩兵第32連隊長は、前田地区占領のための連隊命令を下達した。(第2大隊〔志村大隊〕は28日に前田洞窟に到着している:別記)。第3大隊(満尾大尉)は右第一線11中隊、左第一線第10中隊とし、前田南東の130高地、135高地を夜間攻撃したが、猛烈な集中火を受け第10中隊は中隊長以下多大な死傷者を生じ、第11中隊は中隊長が自決するなど多大な損害を受けた。天明と共に米軍の火力はますます熾烈となり、死傷はいよいよ増加したため、高地頂上から後退せざるを得なくなった。
旗護中隊であった第9中隊は、28日2400頃石嶺において前田高地を占領すべき命を受け、天明までに経塚東側に進出して攻撃を準備した。第9中隊は29日夜仲間南端の米軍を攻撃したが敵火のため攻撃は失敗した。天明後部隊を集結し、攻撃再行を準備中のところ大隊に復帰を命ぜられた。本戦闘において死傷者100名を生じ中隊の残存兵力は140名となった。

写真左から  志村大隊前田高地進出経路/志村大隊進出経路を北から見る/99.4高地から志村大隊進出経路を見る
        志村大隊と第9中隊の進出経路/満尾大隊攻撃発揮位置/満尾大隊進出経路



第381歩兵連隊のK中隊は、浦添丘陵の日本軍の抵抗力を弱めようと、第27師団の作戦地区を西方に進み、仲間部落を通って南西を攻撃し、校舎の方へ進んだ。この校舎は大きなコンクリートで、日本軍の本部があり、仲間村落と前田村落の中間、丘陵の南側にあった。そこで半時間にわたる白兵戦のすえ、K中隊は多大な損害を受け撃退され、煙幕のもとに退却せざるを得なかった。
4月29日の未明から朝にかけて、日本軍は第96師団前線の全面にかけて総反撃に出た。0515、第383連隊第2大隊は、手榴弾や槍を持った日本軍の強襲を受け、G中隊の1個小隊などは、この戦闘で30名から9名になった。とはいえ第383連隊では2回にわたる日本軍への猛反撃で、およそ265名の日本兵を倒した。

                  写真左より  バラックス(仲間地区の学校)/バラックス(米軍戦闘中に撮影)

4月29日
 4月29日前田高地のわが部隊は米軍と近接戦闘を交えながらも、その頂上付近及び南側斜面を確保した。独立歩兵第12大隊(独立歩兵第14大隊属)、歩兵第32連隊2大隊(志村大隊)などは、前田高地の確保に努めるとともに前田部落付近の米軍を攻撃したが、わが方の死傷続出し撃退できなかった。前田部落南側地区においては、歩兵第32連隊満尾大隊が昨夜攻撃に失敗し、米軍と近く相対峙していた。宜野湾街道東側平坦地方面に、戦車を伴う米軍が南下してきたが、第62師団輜重隊、高射砲部隊などが善戦して撃退した。
 師団左翼では怒濤のように進撃して、首里に近い突出した岩山を攻略しようと、軍団前線のどの部隊よりも先の方に出た。138高地の峰は、肉弾戦の後、第383連隊のL中隊が占領した。  

4月30日
 前田高地は終日接戦激闘を交え、多大の損害を生じながらも勇戦して同高地を確保し、前田部落付近の米軍の南下も阻止した。歩兵第63旅団長は30日旅団予備の独立歩兵第273大隊を前田洞窟に進出させて独立歩兵第12大隊長の指揮下に入れた。
 仲間付近の陣地は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けたが、わが部隊(独立歩兵第23大隊基幹)は安波茶東西の線を確保して米軍の南下を阻止した。

5月1日
 前田高地においては依然その頂上争奪の激戦が展開され、わが部隊は多くの損害を生じながらも健闘して陣地を保持した。この頂上付近では、米軍の砲迫の集中火を受ける間は壕内に待機し、米軍歩兵が頂上付近に現れると壕から出て反撃するという状況が繰り返された。前田洞窟の志村大隊は前田東方高地の奪回を企図したが、出撃の都度多数の死傷を生じ成功しなかった。前田部落南側高地の米軍は南方に向かって攻撃して来たが、わが部隊は善戦して阻止した。
 第27師団右翼では第307連隊第3大隊が仲間部落を攻め、学校の方角に向かって進撃した。

5月2日
 前田高地においては、引き続き頂上争奪の死闘が繰り返され、わが部隊は前田部落方面からの米軍戦車の射撃に苦しみながらも、勇戦して頂上付近を確保した。
戦況に進展なし

5月3日
 前田高地の争奪戦の死闘は終日続き、頂上付近に進出してくる米軍に対し、手榴弾、擲弾筒、迫撃砲による攻撃を加えて撃退した。安波茶付近においては0800頃から戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け、激戦の後米軍を撃退して陣地を保持した。
 手榴弾戦。戦況進展なし。

5月4日
 攻勢転移。
第307連隊第1大隊は4日になって戦闘はいっそう激烈を極めた。第1大隊は連鎖陣地に一大破壊攻撃を加えて成功し、そこに陣地を築いて日本軍の反撃に備えた。第1大隊は30日夜から10回のニードルロック攻撃を行いついに占領した。

5月5日
 前田高地の南側斜面及び洞窟を保持するわが部隊は、5日米軍の包囲攻撃を受け、大部は洞窟内に閉じこめられる状態となった。安波茶南側、経塚北側、内間北側地区で終日激戦が続いたが、わが守備部隊は善戦して陣地を保持した。
 5日から反対側の丘腹は徐々に占領され、洞窟を破壊し、封鎖した。この日の夜から6日真夜中にかけて日本軍は丘陵奪回の逆襲を行ない、数度にわたって反撃してきた。第307連隊第3大隊は奇襲を受けたが、白兵戦で250名の日本兵を倒した末、撃退した。

5月6日
 前田高地帯は6日完全に米軍に制せられ、独立歩兵第12大隊、歩兵第32連隊第2大隊などは、果敢に反撃したが、同高地南側の洞窟に封じ込められる状況となった。前田部落南側地区においては、歩兵第32連隊主力、独立歩兵第11大隊、第62師団輜重隊、独立臼砲第1連隊などの諸隊が混淆して米軍と接戦を交えた。各部隊館の通信連絡は困難で戦線の整理は容易でなかった。
 安波茶付近においても激戦が展開し、同地付近の独立歩兵第23大隊を基幹とする部隊は連日の激戦の中にもよく奮闘して米軍の南進を阻止した。澤岻北西800m付近の50m閉鎖曲線高地地区は6日1000頃から戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。わが部隊は迫撃砲の支援を受け、戦車3両を擱座させて午後には米軍を撃退した。安波茶・澤岻方面の戦況を憂慮した軍は、6日独立混成第64旅団から第2歩兵隊第3大隊(尾崎大隊)を抽出して62師団に配属した。尾崎大隊は独立歩兵第15大隊長に配属され、澤岻、末吉、大名地区に配備された。

 浦添丘陵の戦闘はついに終わった。

左から 1945年撮影前田高地/2003年撮影前田高地(中央突出部がNeedle Rock)/1985年撮影前田高地を棚原から見る


5月7日
 前田地区は7日終日混戦が続いた。前田高地洞窟内のわが部隊は依然洞窟に閉じこめられながら勇戦しており、前田部落南側地区においては、戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け激戦が展開され、わが死傷も多かったが、主要陣地は確保した。しかし、独立臼砲第1連隊本部、歩兵第32連隊第3大隊本部、独立歩兵第11大隊本部の洞窟は米軍の馬乗り攻撃を受け包囲下にあった。
 安波茶方面においては、強力な米軍の攻撃に対し、辛うじて安波茶南側高地を保持していた。澤岻北西約800mの50m閉鎖曲線高地付近(独立歩兵第15大隊第5中隊基幹)は昨6日に引き続く米軍の強襲を撃退して陣地を保持した。

5月8日
 前田洞窟には依然独立歩兵第12大隊、歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)などが、米軍の包囲攻撃下に頑張っていた。7日夜に独立歩兵第13大隊から派遣された煙幕構成隊(1個小隊)が前田洞窟に到着したので、独立歩兵第12大隊長賀谷中佐は、発煙を利用する夜間攻撃を実施したが、米軍を撃退することはできなかった。前田部落南側地区においては複雑な地形の中で激戦が行われ、独立臼砲第1連隊本部、歩兵第32連隊第3大隊本部、独立歩兵第11大隊本部などは米軍の包囲下に苦戦を続けた。これら包囲下の部隊を救出するため、8日夜、歩兵第32連隊及び第62師団輜重隊は夜間攻撃を実施して米軍を撃退した。
 安波茶、澤岻北側地区でも接戦が行われ、前田部落方面への米軍の進出によって苦戦を続けた。澤岻北西方の50m閉鎖曲線高地地区では、8日にも米軍の攻撃が続けられたが、善戦して陣地を保持した。


5月9日
 前田部落南側においては、一進一退の近接戦闘が続けられ、米軍は勝山部落南端まで進出して来た。安波茶付近においても米軍は不断の圧迫を加え続けていた。澤岻北西の50m閉鎖曲線高地は9日米軍に占領され、内間付近も強圧を受けつつあった。
 9日62師団長は、今や前田高地奪回の見込みもなく、また独立歩兵第12大隊などの戦力が極端に低下しているので独立歩兵第12大隊長に対し撤退を命じた。9日夜独立歩兵第12大隊、独立歩兵第14大隊主力は洞窟を出て撤退した。撤退は米軍に察知され、賀谷大隊は機関銃の集中火を受けた大の損害を受けた。志村大隊は賀谷大隊の撤退時の損害の大きいのを見て、当夜の脱出を中止した。


5月10日
 前田部落南側地区においては寸土を争う激戦が繰り返され、独立臼砲第1連隊、独立歩兵第11大隊本部、歩兵第32連隊第3大隊本部は依然勝山西方の洞窟に閉じこめられたままであった。
 安波茶地区の独立歩兵第23大隊は、安波茶方面のみでなく右側背に進出して来た米軍の包囲攻撃を受け苦戦の極みに達した。