小波津の戦闘
4月22日
第24師団は北部戦線加入の軍命令に基づき、歩兵第22連隊に我謝〜小波津〜翁長北側高地〜幸地の線の確保を命じた。なお陣地占領は24日夜であった。
4月25日
歩兵第32連隊第1大隊伊東孝一大尉は、24日夜以来師団直轄となって小波津地区に陣地を占領した。その兵力は第1大隊のほか連隊砲中隊(1コ小隊欠)及び独立機関銃中隊第17大隊3中隊(1コ小隊欠)が配属されていた。伊東大隊長は25日夜独立機関銃第3中隊小隊長山田貞雄大尉を長とする警戒部隊を配置するとともに斬込隊を派遣して米軍の擾乱に努めた。
4月26日
軍の右翼第24師団正面の幸地及び小波津地区も米軍の攻撃を受けたが善戦して撃退した。
警戒部隊は側面から攻撃を受け戦況は不利であったため、夜に入って警戒部隊撤退の伝令を派遣した。夜中に警戒部隊の生存者が帰還してきたが、警戒部隊42名中33名の戦死者を生じ全滅的損害であった。
4月27日
幸地及び小波津正面にも戦車を伴う有力な米軍が来攻した。陣地は集中砲火の砲煙におおわれ、1000ころから第一線陣地大山隊は戦闘を開始した。大山隊は逆襲も加えて善戦して陣地を確保した。
4月28日
小波津、幸地正面は戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けた。米軍は早朝から砲撃を開始し、0900頃から大山隊は戦闘を開始した。小橋川方向から大山隊方向に前進中の戦車4両に対し連隊砲(2門)は射撃を開始し、数発をもって2両を転覆させ2両を後退させた。大隊長は大山隊の戦闘支援のため、後方の第1、第3中隊の擲弾筒を大山隊の両側に配置して射撃させた。擲弾筒は歩兵に対するばかりでなく、翁長方面から進出してくる戦車阻止にも役立った。大山隊の使用した擲弾筒の榴弾は27日約300発、28日約700発に達した。大山隊は終日猛攻を受けたが、陣前及び陣内で戦車2両を肉薄攻撃によって撃破するなど善戦して陣地を保持した。
小波津南西方の丘陵攻撃で火焔砲装甲車は村落内に侵入できたが、歩兵は迫撃砲の集中攻撃を受けて進撃を阻止された。
4月29日
0900頃東海岸道に沿う地域を南下した戦車群は小那覇部落に侵入してきた。同部落西端から先頭戦車が現れるや否や、わが砲兵の集中射撃を浴び、先頭数両は命中弾を受け前進を停止した。次いで翁長方面から数両の戦車が大山隊陣地に迫ってきた。これに対し、昨夜配置した連隊砲中隊の肉薄攻撃兵5名が挺身して、2両を撃破させたが全員戦死した。更に2両の戦車が大山隊の陣前に接近してきたが、擲弾筒の集中火によって後退させた。夜、伊東大隊長は「現守備地区を歩兵第89連隊第1大隊と交代し、首里北側へ転進すべき」師団命令を受領した。伊東大隊は夜間配備を交代し、30日0400頃首里北側の平良町に到着した。小波津の戦闘において伊東大隊は約200名の死傷者を生じた。
29日、戦車隊が海岸から翁長に向かおうとした戦車隊が小那覇を出たとたん、水田の中を走る狭い道路上で地雷に触れて擱坐、その場で道をふさいだ。さらに残りの戦車4両のうち3両までが方向転換をしようとして、あるいは転覆、あるいは無限軌道をはずしてしまった。このため第32連隊では、幸地の悪化した状況をもりかえすため、南西方の日本軍陣地に圧力をかけねばならなかった。
4月30日
歩兵第89連隊第1大隊(丸地大隊)陣地は、30日未明から米軍の攻撃を受け、小波津西側高地のわが第一線陣地はついに米軍に占領された。大隊長丸地軍治大尉は夜に入り、第一線陣地奪回のための果敢な斬り込みを行ったが成功しなかった。
30日早朝攻撃を開始。C中隊をして小波津村落北西部にある「煙突山」(Chimney
Crag)を占領させ、A中隊を村落南西側にある「ルーレット・ウィール山」(Roulette
Wheel Area)を占領させることに成功した。これら両山をとってから、第32連隊は、第184連隊と交替することになっていた。しかしその夜、かなりの兵力の日本軍が両中隊に斬り込んできたため、ここでしばらく戦闘が続き、部隊交替は1日1730までかかってしまった。
5月1日
右翼小波津付近の陣地の一角は昨30日米軍に占領されたが、丸地大隊は5月1日米軍の占領地拡大の阻止に努めた。
第32連隊の第1大隊は、前線交替後、後方陣地にひきあげるとき日本軍と衝突し、この戦闘で11名が戦死、22名が負傷した。
5月2日
小波津に侵入した米軍は、兵力を増強して地歩の拡大を図ろうとしており激戦が展開されたが、概ね現陣地を保持した。
丸地大隊は4日の攻勢において、左第一線として攻撃参加。小波津川の線を攻撃開始線として呉家北側の44.6高地の米軍を奇襲攻撃し、陣地を突破して稜線沿いに突進し台上を占領した。しかしその後の米軍の反撃により、丸地大隊長以下全滅的損害を受けて、夜残存者は運玉森地区に後退した。