賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)の戦闘

〔日〕 賀谷支隊の編成
   長 独立歩兵第12大隊長 賀谷興吉中佐
      独立歩兵第12大隊(本部 喜舎場国民学校)
   配属部隊 特設警備第224中隊 海軍第11砲台
   (米軍上陸と共に第2中隊・特設警備第224中隊は特設第1連隊配属となった)
〔米〕 第7師団、第96師団

総 説
 賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)は僅かな兵力をもって4月1日から4日までの4日間、敵2個師団の前進を正面6km、縦深10kmにわたって「遅滞戦闘」を実施した。「遅滞戦闘」は現在では「部隊を予め数線に配置し、砲兵・戦車の支援下に機動力を発揮しつつ逐次抵抗する」方策を採っている。しかし賀谷支隊は砲兵の支援はなく、特別の機動力も持たず、最初から全力展開のまま戦闘を実施して20〜50倍の敵に対してその進撃を遅滞したのである。
 賀谷支隊は、兵員の主体が3〜5年の現役兵であり、北支(現中国)での治安戦などで大隊の独立戦闘、特に中・小隊ごと独立して少数兵力で敵に包囲される等苦しい戦闘を続けた経験を十分に積んでいた。昭和13年以来同じ釜の飯を食べながら戦闘をしてきた団結力と歴戦の自信が米軍に対する遅滞戦闘を戦い抜く大きな原動力となっている。
 また沖縄戦開戦前に師団抽出などで各部隊が配備変更を受ける中、賀谷支隊は昭和19年8月に沖縄上陸以来、一貫して島袋地区周辺で陣地構築や警備にあたったことで周辺の地理に詳しく、これが遅滞戦闘時の軽快・靱強な戦闘に大きく貢献している。

 (独立混成第15連隊などは沖縄配備以来8回の配備変更を受け、その陣中日誌に「設営作業は累次に亘る宿営地変更に妨げられ遅々として進行せず。明確なる上級司令部の意図下達の要を痛感す」とあり、たび重なる配備変更で徒労感と上級部隊への不信感を生んだ。事実多くの部隊は心血注いで構築した防御陣地での戦闘をすることなく、他方面で戦闘をすることとなっている)

           独立歩兵第12大隊(賀谷支隊) 4月1日〜4月2日の戦闘(地図第1)

4月1日
 
4月1日0700北、中飛行場地区及び西海岸地区に対し熾烈な艦砲射撃を開始。0830ころから米軍の上陸用舟艇が海岸に達着して上陸を開始。海軍第11砲台(平安山海軍砲台)は30名全員が戦死し、桑江の連隊砲は小隊長以下11名中10名が戦死し1名が重傷となった。
 
「平安山砲台の山田信二無線手は刻々戦況を報じ『ただ今100m前まで敵が来ている』   『そばまで来ている』と冷静に報告し、その後プッツリと連絡が途絶えたという」



 賀谷支隊長は機関銃中隊を桃原(喜舎場北西2キロ)北方の95高地付近に進出させて、主として第4中隊の戦闘に協力させ、第3中隊主力を呉屋西方高地に配置した。また東海岸の具志川に配備さてていた第5中隊および海軍砲台に喜舎場の大隊本部集結を命じた。
 損害続出する現況を見て、賀谷支隊長は1500ころ第4中隊及び機関銃中隊を桃原山内の線に後退させた。(昼間離脱を実施している。昼間離脱は混乱状態となるので通常は極力避ける) このころ米軍は桃原西方及び95高地に進出してきた。
 第4中隊は1日夕方までに平安山地区の第1小隊がほとんど戦死し、中隊長も重傷となった。
 夜、賀谷支隊長は、第4中隊に桃原及び屋宜付近の確保、機関銃中隊に第4中隊の戦闘協力、第3中隊に島袋北方高地の確保、歩兵砲中隊に101高地付近に陣地占領し第3中隊に戦闘協力を命じた。




 総攻撃の時刻は0830とされた。
0530艦砲射撃開始。0745航空攻撃開始。0800上陸用舟艇移動開始、第7波までが陸地を目指した。同時に上陸準備射撃が開始された。0830攻撃第1波が達着した。沖縄上陸は、全部隊が全く信じられないほど簡単に行われた。日本軍の砲兵隊陣地からの妨害もなかった。日本軍はおろか、地雷原もなく、反撃どころか抵抗もない。北、中飛行場は1130までに占領確保した。





4月2日
 0600ころ第5中隊が喜舎場大隊本部に到着。直ちに同中隊は第3、第4中隊の中間地区桃原以東に陣地を占領させて間隙を閉塞した。防御配備完了は0830で敵の攻撃開始にかろうじて間に合った。
 0900ころから各隊は戦車を伴う米軍の攻撃を受け、戦闘は午後から特に熾烈になった。
 第3中隊と歩兵砲中隊の中間を突破した米軍
(第32歩兵連隊)は、島袋南側高地に進出して、喜舎場北側高地の大隊本部陣地を攻撃した。第3中隊と歩兵砲中隊は米軍の包囲攻撃を受けるに至った。
 第5中隊は桃原東側陣地を保持し米軍
(第381歩兵連隊)の進出を阻止した。 
 第4中隊は左側を突破される危機を生じたため、右第一線の第2小隊を屋宜北端断崖高地に配備変更し、同地の機関銃中隊と協同して西進する米軍
(第383歩兵連隊)を側方から阻止した。
 第1中隊は普天間北側台地を確保して南下する米軍をよく阻止した。
(第383歩兵連隊)

2日夜、賀谷支隊長は次のように部署した。
     大隊本部  161.8高地(ピナクル)へ移動
     第1中隊  野嵩付近に後退し、同地に第一線陣地を占領
     第3中隊  中城城趾に後退し、同地付近に第一線陣地を占領
     第4中隊  161.8高地西方高地に後退して第二線陣地を占領
     第5中隊  161.8高地に後退して第二線陣地を占領
     機関銃中隊 中城城趾に後退して第3中隊の戦闘協力
     歩兵砲中隊 中城城趾(迫撃砲)、新垣付近(連、大隊砲)に陣地を占領し第3中隊に協力
概ね3日天明までに所命の配置についた。第3中隊及び歩兵砲中隊は敵中突破して転進。第1中隊は野嵩到着が3日 1400となった。      


  
 4月2日第96師団は勢頭付近から前進を開始した。この付近から木々の生い茂る峰と洞窟が散在し、険しい地形の中には地雷原や対戦車障害が敷設されていた。夕刻までに第381歩兵連隊は島袋地区まで進撃しようとしたが、桃原付近で日本軍(賀谷支隊第5中隊)の激しい反撃に遭遇し前進は阻まれた。第383歩兵連隊は空軍や砲兵及び戦車の支援を受けた激戦の後(賀谷支隊第4中隊)、ついに桃原南側高地を奪取、引き続き普天間の北東の稜線を制圧するに至った(賀谷支隊第1中隊)
 第7師団の第17歩兵連隊は4月2日1400までに東海岸の中城湾を見下ろす丘陵地帯まで進出し、さらに偵察部隊を海岸線方面に先遣させた。その進撃速度が早く、後続部隊との間にかなりの距離があく結果となった。 その南の第32歩兵連隊は胡座の南側の日本軍(賀谷支隊第3中隊)の頑強な抵抗を排除した後、2日午後遅くにやっと17歩兵連隊と並列するに至った。





第2中隊は国頭へ転進し欠である。したがって1中隊・3中隊・4中隊・5中隊の歩兵は4個中隊編成である。








4月1日の他の中隊位置
 ・第1中隊 普天間川南側
 ・第5中隊 具志川から喜舎場へ
 ・歩兵砲中隊 第3中隊の南東




















4月1日の状況は地図参照


平安山(へんざん)砲台は嘉手納基地内にあり、申請及び許可必要









第5中隊具志川4月1日2200出発
2日0600喜舎場到着負傷者1名   


第5中隊には海軍砲台を破壊した後に大隊本部に集結を命じていたが、破壊せずに集結したため、大隊長は命令違反として1個分隊を再度破壊のために具志川に戻している






連隊砲位置は周囲の地形に比して窪地状の場所にあった(地図参照)







赤屋根は北谷小学校







米軍の記述には日本軍との大きな交戦記録はない。



沖縄市胡屋地区「コリンザ」付近が第3中隊陣地前縁であった。第4中隊が大きな損害を受け後退したために第3中隊もこの場所から後退している。







第5中隊の閉塞配備完了30分で米軍の攻撃が開始された。閉塞が間に合わなければ、賀谷支隊の防御戦闘はこの日瓦解していたと思われる


一部の日本側の資料に中間を突破した米軍を第17歩兵連隊とするものがあるが、これは誤りである。








第4中隊はすでに2個小隊(第1小隊・第3小隊)が全滅している。


第1中隊の海岸陣地が2kmの広範囲に展開していたため部隊掌握が困難であり転進完了が遅れた

屋宜北端断崖高地の地形は当時の地形そのままであるが、この高地自体が米軍施設であり立ち入りが出来ない







米軍は2日の桃原で初めて日本軍の頑強な抵抗に遭遇したと感じたであろう

第17歩兵連隊は上陸後南進せずに勝連半島(東進)へ進撃した


           独立歩兵第12大隊(賀谷支隊) 4月3日〜4月4日の戦闘 (地図第2)
  
4月3日
 第3中隊は中城城趾において東海岸沿いに南下する米軍と激戦を交え、歩兵砲中隊は主火力をこの方面に指向し、米軍の南進を阻止した。
第1中隊は野嵩において中隊正面を米軍の強圧を受けつつ陣地を保持した。
 3日夜、賀谷支隊長は中城の第3中隊及び歩兵砲中隊を新垣北側高地に後退させ、第4中隊を161.8高地(ピナクル)に後退させて直接掌握した。また野嵩方面の第1中隊が苦戦中なので、第5中隊を野嵩方面に増援した。


 第24軍団は進撃路を南にとった。
 第7師団は第17歩兵連隊を残留させて後方を固めさせ、第32歩兵連隊はその3大隊をもって、北中城湾を海岸沿いに南下した。4.5キロ進撃して久場崎を占領、村落南西部の端から海岸まで続く丘陵地帯の海岸沿いにある165高地の日本軍戦線
(第3中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊)と相対峙した。連隊の一部は、十回にわたる日本軍砲兵の攻撃を浴びた。
 第96師団は左翼に第32歩兵連隊をおいてよく呼応しながら、165高地と荻道(おんじょう)目指して進撃した。この高地占領は、その後何回となく失敗した。第96師団の別の部隊は、喜舎場や安谷屋付近と野嵩北東方に進撃し、普天間とその550m南方の高台を占領した
(野嵩で日本軍第1中隊と対峙、後に第5中隊が戦闘加入)。西側の戦線では、96師団は伊佐浜から喜友名南東部までを確保した。



4月4日
 野嵩の第1中隊、新垣の第3中隊正面は米軍の激しい攻撃を受け、わが方の死傷者続出し苦戦したが、野嵩・新垣とも辛うじて保持した。
 4日夜賀谷支隊長は大隊を161.8高地(ピナクル)付近に撤収集結するに決した。
5日天明までに各隊は161.8高地(ピナクル)に集結を完了した。一部は4日夜、主力は5日夜幸地に後退し、前方部隊の任務を果たした。賀谷支隊の損害は、戦死将校11名、下士官兵231名。負傷数不明。


賀谷支隊長、戦闘開始前の中隊長への訓示
「通常は防御は3倍の敵に対すると言うが、今度の戦闘は何十倍という常識を越えた敵に対する戦闘で、既に常識外れの戦闘だ。だから勝つとか負けるとか考えるな。常識外れの戦闘だからといって、我々は今更戦を止めて帰るわけにはいかない。自分と自分の部下の命、そして国を護るため最善を尽くさなければならないのだ。大敵といえども恐れず、唯々最善を尽くすことのみを考えよ」

地図第2は4月3日〜4日の戦闘を記入した
























第3中隊の中城城址陣地について、後日大本営から「東海岸道沿いに対戦車戦闘を疎かにした等」の批判を受けることになるが、平地部には寄るべき地形もなくまた寡兵で敵を迎え撃つ手段として他に方法はなかったと思われる。

第1中隊が野嵩に配備完了するまでは第4中隊が野嵩で第1中隊の後退を援護した。





















第5中隊は翌4日に壊滅的な損害を受ける












地図第2からもわかるように、4日には野嵩陣地は大きな突角を形成し後退を余儀なくされた 





写真中央左のグレーに見える山肌は現在ゴルフ場になっているが、この場所が新垣北側高地である

大隊人員1233名編成で戦死者が242名である。負傷者はこれの数倍いるであろうから近代戦からすれば事実上戦闘能力は無くなったと考えてよい(しかし6月10日まで戦闘を継続してる)