嘉数の戦闘
4月5日
左翼独立歩兵第13大隊正面は神山及び大山付近の前進陣地が昨夜撤退したため、85高地(大山南)(Cactus
Ridge)地区の主陣地は5日朝から戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受けた。守備部隊は善戦し、戦車2〜3両を擱座させ米軍を撃退した。
4月5日西部地域の383連隊はほとんど前進できなかった。牧志から600ヤード南東のカクタス高地(85高地)中央に進出を企図した。戦車に援護された歩兵部隊が猛火の中カクタス高地に攻撃を行った。この高地は戦車壕、有刺鉄線、深い地雷原により守備されていた。アメリカ軍戦車が地雷原の間隙から進入しようとした際には47mm砲の射撃に遭遇、2両が命中弾を受け破棄された。歩兵は直ちに機関銃と小銃、それに迫撃砲の支援を受けて後退した。
4月6日
独立歩兵第13大隊正面の85高地(第3中隊基幹)地区の主陣地は米軍の猛攻を受け、全滅に近い状態となり85高地(Cactus
Ridge)付近は米軍に占領された。
4月6日敵の強固な陣地カクタス高地(85高地)は依然軍団の右翼の攻撃を阻止していた。早朝から空爆によって攻撃したにもかかわらず、96師団地上部隊が攻撃すると以前と変わりない敵の射撃に遭遇した。第383歩兵連隊第2大隊は高地攻略のため敵砲迫の猛爆の中を攻撃開始した。手榴弾を投じつつ前進を行い第2大隊はカクタス高地の西半分を占領した。そして7日アメリカ軍の突撃によって残り半分を遂に占領したのである。
4月7日
独立歩兵第13大隊正面の大謝名東方高地(第4中隊基幹)が猛攻を受け、第4中隊は敢闘したが、7日夕刻ころには死傷4分の3を生じ戦力は激減した。大隊長は、第4中隊の戦力低下を考慮し陣地保持困難と考え、7日夜第4中隊を嘉数の陣地に後退させた。
4月8日
4月8日朝から、宇治泊−嘉数−我如古−南上原−和宇慶のわが陣地は全戦にわたって米軍の攻撃を受け激戦が展開された。独立歩兵第13大隊正面においては、嘉数北側高地一帯のわが陣地は米軍の猛攻を受けたが、善戦ののちこれを撃退して陣地を保持した。
4月8日第383歩兵連隊長メイ大佐は第1大隊、第3大隊に対し9日中に嘉数高地を占領するように命じた。
4月9日
9日払暁、独立歩兵第13大隊の守備する嘉数北側高地(Kakazu Ridge)は米軍の奇襲攻撃を受けた。米軍は常用戦法である準備射撃を行わないで来襲したのであった。0600頃わが守備隊が米軍の奇襲を知った時、既に有力な米軍が嘉数北側(Kakazu
Ridge)及び西側70高地(Kakazu west)の各頂上付近に侵入しており、直ちに激烈な近接戦闘となった。独立歩兵第13大隊長原宗辰大佐は、わが有効な迫撃砲火の支援下に果敢な反撃を行い、1000頃から逐次米軍を撃退し、夕刻には嘉数北側高地を確保した。嘉数西側70高地(Kakazu
west)に進出した米軍に対しても、果敢な反撃を加えてこれを奪回確保した。
歩兵第63旅団長中島少将は、独立歩兵第272大隊を増援として独立歩兵第13大隊長に配属した。
この戦闘において米軍に多大の損害を与えたが、わが方も独立歩兵第13大隊第1中隊は中隊長以下大部が戦死傷し中隊の戦闘力はなくなった。また独立歩兵第13大隊も4月9日までに士官以上の戦死が21名におよび、大隊戦力は極度に低下した。
4月9日朝、第383歩兵連隊第1大隊長キング中佐はKakazu Ridge(嘉数北側高地)を、第3大隊長ステア中佐はKakazu
West(嘉数西側70高地)を攻撃すべく態勢を整えた。攻撃は通常の攻撃準備射撃を行わず奇襲を主眼として開始された。兵士は嘉数に対し漠然とした認識しか持たずに攻撃を開始した。空中写真や地図は不正確であり、細部が欠如していた。攻撃を開始するに当たって嘉数高地と兵士達の間に深い渓谷が存在することさえ見落としていた。行動は夜明け前の暗がりの中、その移動を秘匿して開始した。東から西へ第1大隊C中隊、A中隊、第3大隊のL中隊、I中隊が並列で行動した。C中隊とA中隊は渓谷を越えKakazu
Ridge(嘉数北側高地)の斜面を前進し日の出前に敵に気づかれることなく頂上に到達した。L中隊の前衛部隊は守備部隊に気づかれることなくKakazu
West(嘉数西側70高地)に向かい、途中日本兵数名を殺した。西側のI中隊は移動開始が遅れ日出時には宇地泊の160m南側の開豁地にあった。
0600を少し過ぎた頃に敵はこのことに気づいた。トーチカの日本兵がA中隊を照準し射撃を開始した。ほとんど同時に雨のような迫撃砲の射撃とともに時間をおいて断続的に発射される機関銃射撃が中隊前縁部に開始された。アメリカ軍は全くの無防備であった。A中隊およびC中隊の大部分は稜線上にあったが双方は別経路で前進していたし、未だに連絡も取れていなかった。またA中隊と別経路で嘉数西側高地に向かったL中隊も連絡が取れていなかった。L中隊は当初渓谷を渡り終えたばかりで、それらの敵火力から逃れられていたが、I中隊は西方の開豁地にあったために蹂躙され、Kakazu West(嘉数西側70高地)の部隊は完全に分離されてしまった。AおよびC中隊の兵士達は稜線の穴に飛び込むとともにこの殺人的な射撃から逃れんとKakazu Ridgeの前面(北東斜面)に向かって後退し始めた頃、L中隊はKakazu Westの頂上部を占領するために斜面を駆け上がって行った。機関銃射撃に遭遇したL中隊長ミッチェル中尉は部下を叱咤激励しつつ頂上を目指した。彼らが銃剣を付けた直後、近接戦闘に陥りそれはしばらく続いたのである。Kakazu WestをL中隊が押さえたころ、Kakazu Ridgeでは絶望状態に陥っていた。日本軍の砲迫弾はアメリカ軍前線を駆逐しつつあった。白兵戦は特にA中隊地域で激しく0745まで絶え間なく続いた。支援小隊は渓谷と高地の間で釘付け状態になり、増援も不可能であった。敵はさらに近接戦闘を加えた。A中隊長ロイスター大尉は、退却もしくは増援部隊の派遣、第3大隊が直ちに西側に並列となることを具申した。彼は第3大隊がKakazu Westで命をかけて戦闘をしていることなど全く知るよしがなかった。B中隊はA中隊の後方から追従するように命じられた。しかし渓谷の弾幕により前進が阻まれた。日本軍は渓谷に弾幕を形成しアメリカ軍が増援するのを阻止するとともに、頂上部の残りの小兵力を駆逐するために逆襲部隊を投入した。
0830、C中隊左翼は依然激しい攻撃を受けていた。第1大隊長キング中佐はロイスター中隊長に死守を命じたものの、この作戦が失敗したことを悟っていた。中隊長は無線で「稜線上には50名がいる。支援部隊は釘付け状態である。機関銃の十字砲火を受けているところに砲迫の集中射撃を受けている。増援部隊が派遣されない限り退却する」と報告した。メイ大佐は足を踏み入れたこの嘉数高地から手を引くのをためらった。さらに第1大隊が後退中に多くの犠牲者を出していることを考慮し、第1大隊長に無線で「G中隊を増援する。高地を死守せよ」と命じた。メイ連隊長は第2大隊G中隊を第1大隊と第3大隊の間隙部に投入することを命じた。しかしながらG中隊は第1大隊の後方1100mまで進撃しただけで、第1大隊を救援することは出来なかった。Kakazu Ridge上のロイスター大尉はこのままではこの地域を確保は出来ないと判断した。幸い現在地は迫撃砲の死角であり、彼は煙幕を張りその隠蔽下に一気に高地から駆け下りようとした。最初の煙幕弾が化学部隊から発射され戦線を覆った。
1000にC中隊、A中隊は効果的に隠蔽され退却を開始した。後衛部隊が稜線上で奮戦している間に重傷者が運ばれた。嘉数に残っていた部隊、渓谷付近の平地部で釘付けになっていた部隊とも迫撃砲の射撃をかいくぐって退却した。AおよびC中隊が渓谷にたどり着いた1030にB中隊長バンブルペン大尉と出会った。彼は増援のため前進してきていた。大隊命により46名の勇猛な兵士を率いて渓谷の南側の窪地から平地部に登った。とたんに迫撃砲と機関銃射撃を受け7名が負傷した。敵弾幕により前進は不可能であった。午後、3個中隊の生存者は混乱のうちに大隊の線に復帰した。
AおよびC中隊が退却した4月9日の午前、L中隊は嘉数において唯一のアメリカ軍部隊であった。ミッチェル中尉とその部下は嘉数西側高地の2つの丘にあった。南の丘は保持できなかったが、日本軍の主攻撃がAおよびC中隊に向けられていたため、北の丘は手つかずであった。しかしながら充分に近接して手榴弾や爆雷で攻撃してきた。正午頃、敵は嘉数西側高地のアメリカ軍の抵抗をみて、さして強力でないと判断し攻撃を指向してきた。日本軍は小隊から中隊規模の逆襲を午後に4回にわたって加えてきた。日本軍歩兵部隊は迫撃砲の射撃の間隙をぬって爆雷などを投じて攻撃した。L中隊の救出は必死の努力にもかかわらず達成できなかった。メイ連隊長は第2大隊に対しG中隊をKakazu
WestのL中隊とKakazu RidgeのA中隊の間隙に投入するよう命じた。G中隊は午後になっても渓谷に到達できなかった。宇地泊の南側で釘付けになっていたI中隊はこのころまでなんとか少しでも援護できるようにと奮闘した。I中隊とL中隊の左翼までは1500mの距離があった。しかし日本軍の激しい砲火により渓谷を渡ることすらできなかった。日本軍の渓谷沿いの弾幕は未だ通過を許さなかった。
1600までにミッチェル中尉は彼の確保地域にはもはや希望がないと考えた。総勢89名の兵士が嘉数西側高地の頂上付近に達していたが、15名がすでに戦死し、無傷の兵はわずか3名だった。艦砲射撃が中尉の付近に落下し、ついに中隊自体も弾薬切れという最悪の事態に直面した。何人かは戦死者や負傷者から弾薬を集めたが、ほとんどの者は弾薬が全くない状態であった。機関銃も焼け付き、弾薬リンクも空であった。1530の最後の逆襲は100名から150名の日本軍兵士で襲ってきた。中尉はすでに残された攻撃力では十分抵抗することができないと判断せざるを得なかった。ミッチェル中尉は撤退を決心した。そして支援射撃を要求したが、この射撃には正確な手腕を必要とした。4.2インチ化学煙幕弾がKakazu Westの南斜面に落下、日本軍の射撃を膠着状態にした。この間にL中隊の生存者は負傷者を連れて一気に丘を下った。しかしながら日本軍は煙幕中に機関銃弾を浴びせ、その結果後退中に2名の戦死者を出すことになった。
第383歩兵連隊にとって最悪の日であった。連隊は戦死23名、負傷256名、行方不明47名の損害を受けた。第1大隊は戦力が半減し戦闘不能と判断された。メイ大佐は第1大隊長キング大佐を解任しエリクソン少佐を指揮官に命じた。L中隊は中隊本部要員を加えても38人が残っただけであった。連隊は一歩も地歩を進めることが出来なかった。
4月10日
嘉数高地(Kakazu Ridge)においては昨9日高地頂上付近まで進出した米軍を激戦のすえ撃退したが、10日早朝から猛烈な集中砲火とともに0700過ぎから米軍歩兵は攻撃前進してきた。これに対し、わが砲兵及び迫撃砲は有効な集中火を浴びせ、北正面の攻撃は阻止したが、高地北西側から米軍は次第に侵入し接戦となった。
西側70高地(Kakazu West)を中心として陣地占領中の独立歩兵第272大隊は、0800頃から70高地に進出して来た米軍と接戦を交え奮戦したが、0930頃には同高地頂上及び北斜面は米軍の占領するところとなった。わが部隊は同高地南側斜面の墓地などを利用し頑強に抵抗するとともに逆襲も加えてその進出を阻止した。嘉数北側高地も西方から侵入した米軍と接戦となったがこれを撃退して同高地は確保した。10日夜米軍は、70高地から嘉数高地西側鞍部付近に陣地を構築してわが軍と近く相対した。
歩兵第63旅団長は、10日夜独立歩兵第273大隊の一個中隊を独立歩兵第13大隊に配属した。
同部隊は嘉数に移動して70高地の守備についた。
4月10日の攻撃は、副師団長イーズレイ准将、第383歩兵連隊長メイ大佐、第381連隊長ハロラン大佐で協議された。この攻撃は2個連隊(第383、第381連隊)が参加することとなった。しかしながら戦車部隊は、その地形特性上から今回も協同することなく、艦砲射撃、航空攻撃による支援下で歩兵部隊中心の攻撃とした。4月10日0645から約15分の攻撃準備を開始したが効果不十分と判断しさらに15分の攻撃準備射撃を継続した。第381歩兵連隊第2大隊が宇地泊からKakazu West(嘉数西側70高地)に向かい進撃を開始したが直後から日本軍の激しい迫撃砲や機関銃射撃を受けた。第1大隊は第2大隊の後方を進撃した。日本軍の射撃は第381連隊正面に集中していたため、第383連隊正面はさしたる抵抗もなく前進を開始できた。第381歩兵連隊第2大隊は昨日第383連隊I中隊が集中射撃を受けた開豁地で同じように釘付け状態になった。日本軍はすでに渓谷に沿って弾幕を形成しており第2大隊の兵士は岩の下に集まって敵射撃から逃れるという状況であった。0805、第2大隊の前衛部隊は渓谷を出て嘉数西側高地の北斜面に取り付いた。抵抗は少なく、嘉数西側高地の稜線からの機関銃射撃に対して小迂回してこれを駆逐した。0930までに2個中隊が嘉数西側高地の頂上部に達し、すぐに陣地構築を開始した。ここで第383連隊が左翼Kakazu Ridge(嘉数北側高地)に達するのを待つことになった。
しかしながら第383連隊はほとんど前進できなかった。右翼の3大隊、左翼の2大隊は昨日と同じように渓谷の手前で釘付けの状態となっていた。メイ大佐は敵の攻撃は取るに足らないものと考え両大隊に無線で嘉数高地への前進を指示した。第2大隊の一部はどうしても渓谷の北側から進撃できなかったものの、他の部隊は宇地泊〜嘉数道を前進し、ルート5号を右折して渓谷を越えようとした。しかしここも敵火の支配下にあった。第2大隊は嘉数高地下の渓谷の東側で停止し、終日動くことが出来なくなった。第3大隊は渓谷の手前で動きがとれなくなったが、第2大隊と反対に西側に進んで第381連隊の行動地域に移動した。第3大隊はなんとか嘉数高地に取り付くために381連隊第2大隊の行動地域に入り嘉数西側高地北東斜面の同大隊の一部と連係をとることが出来た。1100には381及び383連隊は嘉数西側高地、その北斜面、嘉数高地との鞍部で両連隊が連係をとった。
嘉数高地は依然手つかずであった。正午頃第383連隊第2大隊は東側から攻撃を開始した。だがこの攻撃は頓挫した。部隊は110mほど進撃したところで日本軍の機関銃、迫撃砲により釘付けとなった。これ以上の進撃は不可能であった。第381連隊第2大隊は嘉数西側高地稜線上から南方向、つまり反対斜面の嘉数部落方向に進撃を試みた。少し前進したときに日本軍の激しい逆襲を受け、嘉数西側高地の北側の丘のもとの陣地に退却した。しかし日本軍はアメリカ軍の進撃を阻止するだけで昨日のように退却させるには至らなかった。日本軍はこの沖縄戦を通じ、敵方斜面や稜線上での攻撃よりも反斜面での砲迫支援下の攻撃を重視した。
状況は今や危機的でさえあった。第383連隊第3大隊は小部隊指揮官に死傷者が多かったがなお攻撃の手は緩めなかった。1345イーズレイ准将はこの状況を打破するために第381連隊第1大隊に対し、鞍部の第383連隊の右翼から進出し、後続の救援があるまで保持せよと指示した。1400までに第381連隊第1大隊は第2大隊が早朝進出した経路と同じ経路をたどって進出した。渓谷を半分ほど渡り終えた最も弱点が露呈するときに敵の事前照準による迫撃砲・機関銃の集中射撃が再度開始された。味方の支援を待たずに、第1大隊の前衛部隊は降りしきる雨の中嘉数西側高地の急斜面を一気に登りだした。その後後続の一部も前衛部隊に追従したものの、残りはその日には嘉数西側高地に到達できなかった。1530ころ第381連隊第1大隊は、やっと鞍部にたどり着き第383連隊第3大隊を救援できた。しかし効果的な救援には少し時機を失したものであった。すでに第3大隊は敵の攻撃により進出を阻止されており、救援部隊はアメリカ兵を待ち受ける日本軍が見てとれた。しかしながら第381連隊第1大隊は嘉数高地稜線を南東に向かって攻撃を開始した。しかしこの攻撃は失敗に帰した。しばらくして渓谷で分断された第1大隊の後続が到着、夕暮れまでに嘉数高地の稜線まで約20mの北側斜面に進出した。
4月11日
嘉数正面においては西側70高地頂上付近が米軍に占領されていたが、11日早朝から嘉数地区は有勢な米軍の攻撃を受けた。70高地の米軍は南側への進出を企図し、嘉数高地は西方斜面方向からその攻撃を受けた。わが守備部隊は砲迫の適切な支援を得て、逆襲を併用して米軍の進出を阻止し、嘉数北側高地頂上付近に進出して来た米軍を夕刻にはこれを撃退して同高地を確保した。
4月11日0700、嘉数高地奪取の連隊命令の下、第381連隊第1大隊は鞍部を越えて攻撃を開始した。部隊は稜線の西斜面から攻撃開始したが嘉数部落の南側地域から弾道の低い機関銃射撃と嘉数高地の反対斜面から高俯角迫撃砲射撃を受けた。更に日本軍は稜線上から爆雷を投じた。攻撃部隊は嘉数西側高地から支援射撃を受けたが、ついに稜線の直前で停止した。このとき日本軍は2度にわたる激しい逆襲を加えてきたがなんとか撃退した。
第383連隊第3大隊はこの朝鞍部の北側にとどまり、激しい攻撃を受けている渓谷を突破して届けられた食糧と弾薬を受領した。1300に第3大隊は第381連隊第1大隊の左から嘉数高地の北西斜面へ進撃開始した。160mほど前進した時に嘉数高地の反対斜面から迫撃砲および機関銃の激しい攻撃を受けた。さらに激しい攻撃は今だ敵が保持している嘉数西側高地の反対斜面からも加えられた。ステア大佐は現在の攻撃を続けるには、まず嘉数西側高地北斜面の第381連隊第2大隊が嘉数西側高地の南地域に残存する日本軍を殲滅することが必要だと判断した。ステア大佐は激しい砲爆をぬって第2大隊の指揮所に進出、第2大隊長グレイビル中佐にこの計画を説明した。時はまさに嘉数西側高地が日本軍の逆襲を受けている最中で、グレイビル中佐の部下たちは必死で現陣地を保持せんと戦っている時であった。ステア大佐は前方に進出している攻撃部隊に連絡を取り、煙幕隠蔽下で負傷者を後送せよと命じた。嘉数高地北西斜面の2個大隊は元の攻撃発起位置まで復帰した。再び嘉数高地は敵の占領するところとなった。
11日から12日の夜にかけて日本軍は320mm砲弾を含む迫撃砲射撃を宇地泊〜嘉数道に加えてきた。その一発が第381連隊第1大隊の救護所に落下し2名の衛生将校、11名の兵士が死亡、9名が負傷した。
4月12日
嘉数高地は12日も朝から猛攻を受けたが、守備部隊は勇戦敢闘し、有効な迫撃砲の集中火と相俟って数回にわたる米軍の攻撃を撃退して嘉数高地を確保した。
4月12日、96師団は嘉数高地奪取の最後の攻撃を開始した。航空攻撃とロケット攻撃で嘉数高地の稜線と反対斜面を爆撃し、第381連隊第1大隊は高地の北西斜面を前進した。日本軍は航空機が離脱するのを待ち、その後かつて96師団が経験したことのないような迫撃砲の集中射撃を実施した。その後1時間以上日本軍はこの迫撃砲射撃を1分に1発以上の速射で発射した。第381連隊隷下の部隊は3度攻撃を行ったが、その都度迫撃砲射撃だけでなく機関銃、てき弾、爆雷の反撃を受け、攻撃は頓挫した。大隊は45名を失った。この迫撃砲射撃はアメリカ軍が後退すると同時に止んだ。敵は今だ嘉数高地を完全な支配下に置いていたのである。
4月13日
独立歩兵第13大隊長は、70高地奪回の旅団命令に基づき、独立歩兵第273大隊をもって13日夜70高地奪回攻撃を行わせたが不成功であった。
4月12日夕刻から深夜にかけて激しい砲迫射撃が嘉数高地北斜面の第381連隊第1大隊と嘉数西側高地の第2大隊に集中した。この砲撃で第1大隊の有線が不通となったが死傷者は軽微であった。4月13日0300、敵火はますます激しくなった。これは嘉数を守備する第272大隊が嘉数集落から跳び出し嘉数高地と嘉数西側高地を分断しアメリカ軍戦線を断ち切ろうとする予兆ではないかと思われた。海軍の照明弾で対応しようとしたが、それまでに約1時間を要した。この間に日本軍は嘉数の南斜面を前進した。その後日本軍はアメリカ軍に近接したものの、照明弾が使用できるようになると嘉数全地域が照射され、日本軍の夜間攻撃を阻止することとなった。第1大隊は81mm迫撃砲に支援射撃を要求した。第2大隊は前線の160m前方を海兵隊の野戦砲部隊に射撃要求した。日本軍の奪回は不成功に終わった。
4月14日
戦線不活発
4月15日
戦線不活発。米軍は攻撃準備中と看取された。
4月16日
16日朝嘉数西方の70高地付近のわが陣地に対し米軍が攻撃してきたが、撃退した。10日以来占領されている70高地頂上付近を奪回するため、16日夜独立歩兵第13大隊長は、配属の独立歩兵第273大隊をもって16日夜奪回攻撃を実施したが、多大の損害を受けて失敗に終わった。
4月13日から4月17日の間、米軍は局部的な攻撃を実施したが、わが戦線に大きな変化はなく、米軍の攻撃準備であると思われた。軍は、米軍の次期攻撃に備えて防備の強化を続けた。
4月18日
牧港及び伊祖付近は歩兵第63旅団と歩兵第64旅団の戦闘境界となっていた。4月18日夜一部の米軍があたかもこの境界の弱点に乗ずるかのように牧港付近から伊祖付近に侵入した。
米軍第27師団第106歩兵連隊は、午後7時30分から渡河橋資材を搬入開始。午前0時までには約100mの歩行橋が完成した。
4月19日
独立歩兵第13大隊は数次の戦闘によって戦力が極度に低下したため、第62師団長は独立歩兵第23大隊主力との交代を準備した。4月19日の原大佐の指揮下部隊はつぎのとおり。
独立歩兵第13大隊 戦力は極度に低下し3分の1程度
独立歩兵第23大隊 新鋭
独立歩兵第272大隊 実力一個中隊以下の戦力
独立歩兵第273大隊 戦力半分以下
独立迫撃第8中隊
4月19日米軍は早朝から嘉数地区に猛烈な砲撃を加え、0730頃から嘉数正面に攻撃前進してきた。0820頃嘉数高地北側谷地に米軍部隊が侵入するや、わが臼砲、迫撃砲、機関銃は集中火を浴びせて前進を阻止した。0830頃3〜4両ずつの米戦車群(合計30両)が嘉数と西原の中間道を南下して来た。わが地雷によって2〜3両が擱座したが、戦車群は縦隊となって路上を南下した。この戦車に対し速射砲、連隊砲、高射砲などの射撃を集中するとともに、歩兵の肉迫攻撃も加え、たちまち数輌を擱座させた。残余の戦車群は西進して嘉数部落に侵入したが、これに対し引き続き攻撃を加え約20両を擱座させた。また一部の米軍歩兵を嘉数部落北側に誘致して包囲攻撃するなど、きわめて計画的な戦闘によって多大の損害を与え、夕刻までに米軍を撃退したが、わが損害も大きかった。本戦闘には砲兵部隊、臼砲連隊、迫撃砲のほか、独立速射砲第22大隊、独立機関銃第4大隊、野戦高射砲第81大隊が第一戦歩兵大隊に有効に協力した。
19日夜、師団命令により嘉数地区以西は歩兵第64旅団長の担任となり、独立歩兵第13大隊長は、嘉数地区の防衛を独立歩兵第23大隊長に移譲し、独立歩兵第13大隊及び独立歩兵第273大隊は前田地区に後退した。
西原高地を攻撃する第381歩兵連隊第3大隊は、嘉数と西原丘陵の間を攻撃した。しかし攻撃は進展せず一度総退却を始めた。しかし日本軍の攻撃が熾烈でありその場に塹壕を掘り、各中隊は他の中隊を援護射撃をして退却することとなった。この日西原丘陵前に布陣した第381連隊に落ちた砲弾は2200発といわれ、1700までに85名の戦死傷の損害をこうむった。
宜野湾地域の第27師団は第106連隊が牧港渡河、105連隊が嘉数高地に強襲攻撃した。第105連隊第1大隊は、嘉数高地の直ぐ前面の低地に沿って散兵戦をしいた。C中隊は宜野湾街道のすぐそば、西側にB中隊、その後方にA中隊が展開した。大隊は予定通り0730攻撃を開始した。0823、先頭部隊は、嘉数高地から約200m離れた峡谷付近にある小高い丘の上に陣取った。ここから前面の開闊地へ進撃しようとしたとき、日本軍の機関銃や野砲が近くの陣地から砲撃を開始した。この一時の砲撃で米軍は多数の犠牲者を出し、その後も犠牲者は増え続けた。開闊地にいた米軍はそのまま釘付けにされ、後方の部隊との連絡も絶たれた。嘉数の山頂や西部スロープの日本軍陣地では機関銃が真っ赤に火を噴いた。0830、歩兵部隊が嘉数高地の前方の小山をあきらめて後退しかけたとき、戦車隊が3列、4列になって嘉数高地を横断し始め、嘉数と西原の間を南進していった。全戦車30両が日本軍陣地の主力に強力な攻撃を加えようとこの場所に集結した。戦車3両が進撃の途中、台地付近で地雷にあって擱座した。戦車隊が列をつくって進撃しているとき、西原丘陵の陣地から、日本軍の47mm対戦車砲が猛攻を加えてきた。敵弾は16発が発射されたが、米軍は1発も撃ち返せずに戦車4両を撃破された。
戦車隊は進撃路を模索しつつも、1000に嘉数部落に到着し、嘉数部落の陣地を破壊した。だが米軍の損害も大きかった。村落周辺で戦車14両が撃破された。特に爆薬箱を持った日本軍は自爆攻撃を加えこれが大きな脅威となった。戦車は無限軌道を破壊され動けなくなったところに、日本軍がなだれ込み、天蓋をあけて手榴弾を投げ込んだ。こうして多くの戦車と搭乗員を失った。1330米軍歩兵の追従の望みはなく、戦車隊は後退命令を受けた。30両の戦車のうち帰隊したのは8両であった。
第105連隊第1大隊歩兵A中隊の1個小隊は嘉数部落北側に巧みに誘致され、包囲されるなど第105連隊第1大隊は進撃が完全に不可能となった。その後、第2大隊が左翼に回り、宜野湾街道沿いに圧力をかけ、1225に攻撃を開始した。場所は嘉数高地の東端であった。(その後4時から第3大隊に合流するために大きく西進した)
第3大隊は朝のうちに嘉数の西方から進撃し第106連隊の東側、浦添丘陵の頂上に二個中隊を配置した。第2大隊と第3大隊は1800頃合流を果たした。
19日の戦闘の結果、米第24師団の戦死傷は、行方不明を含めて720名に達した。
4月20日
4月20日米軍は第62師団の全正面に猛攻して来て、全戦線に激戦が繰り返された。西海岸正面の米軍は20日朝から兵力を増強し、伊祖北側から南西方に向かって猛攻してきた。伊祖部落西方地区に侵入した米軍約二個中隊を伊祖付近の所在部隊(独立臼砲第1連隊本部など)は、独立歩兵第21大隊と協同し、迫撃砲の支援を得て包囲攻撃して撃退した。
嘉数陣地は主として左側背から米軍の攻撃を受けた。わが部隊(独立歩兵第23大隊基幹)は虚実を尽くして米軍を撃退するとともに、嘉数高地から右正面西原高地前面の米軍を側射して西原高地の友軍を支援した。
第105連隊の第2大隊、第3大隊がまだ浦添で苦戦を続けている頃、第1大隊は嘉数の日本軍掃討の任務を与えられていた。第1大隊の3個小銃中隊は正午までに激烈な村落争奪戦に巻き込まれた。第1大隊は1630ころまでに村落の西端まで攻め寄せ、嘉数高地をほとんどその東端まで掃討した。そして嘉数陣地を占領できるかに見えたとき、命令により第1大隊はA中隊を残して第2大隊の援護のため移動を命ぜられた。A中隊は偵察隊を編成し嘉数村落を偵察したが日本軍の攻撃を受け前進は阻まれた。
4月21日
伊祖、安波茶地区では終日死闘が繰り返されたが、城間・安波茶陣地を確保して米軍の進出を阻止した。
東西高峰をめざしての丘陵争奪戦は、相変わらず続けられた。第105連隊第1大隊、第2大隊は、隊を再編し「East
Pinnacle」めざして攻撃を開始。第105連隊第3大隊、第106連隊第1大隊は「West
Pinnacle」に進撃した。しかしながら両攻撃は失敗に終わった。ただしこの日前日戦死した日本軍将校が持っていた資料から地雷原の位置が判明したため、この除去を行い0900までには全地雷を処理し、丘の頂上まで一本の補給路ができあがった。そして正午までに障害物も処理した。
嘉数陣地は21日午前、午後の2回にわたって米軍の攻撃を受けたが善戦して撃退した。独立歩兵第23大隊は20日、21日の戦闘において戦力の3分の1を失った。
嘉数地区に日本兵がおりてきて、迫撃砲や機関銃をすえて陣地を強化し始めた。この増援された抵抗軍に対して、米軍師団偵察隊は、嘉数村落めざして、徐々に進撃し1145ついに、嘉数村落の端に到達した。ところがここで全部隊が猛砲火を受けて釘付けにされ、戦車1個小隊が救援に呼ばれた。3時間もの間匍匐前進を続け、嘉数の廃墟の中を悪戦苦闘したあげく、進み得たのはわずか450mだった。米軍は退却し、1600、師団砲兵隊が村落に大量の砲撃を加えた。その後、再度米軍は村落に進撃したが、日本軍は地下から出て来て砲火の壁を作り進出を阻んだ。27師団は苦境に陥った。もはや予備兵力を持っていなかったのだ。そこで前線で戦闘中の第106歩兵連隊第3大隊を後退させ嘉数西の攻撃を命じた。
4月21日の夕方、ホッジ少将は第27師団と第96師団の協力により嘉数作戦を遂行するよう第27師団副師団長ブラッドフォード准将に全責任を委ねた。この夜第105連隊の前線に、猛烈な砲撃が襲いかかってきた。
夜明け前に日本軍は連隊左翼に対し攻撃を開始した。このため海軍が照明弾を撃ち込んで前線を照らし、ついで攻撃を阻止するために艦砲射撃を加えた。
4月22日
米軍の攻撃は依然全正面で続いた。城間、伊祖、安波茶付近でも戦闘が繰り返されたが、わが部隊は各陣地を確保した。
第106連隊第1大隊は攻撃力を集中して東の方の第105連隊との連繋のため550m後方に退き、第105連隊は部隊の再編成に努めた。
嘉数陣地は22日の米軍の攻撃は活発でなかった。
米軍は、嘉数陣地の日本軍は少なくとも1個大隊と見積、第24軍団に予備軍一大隊の派遣を要請。これに伴いホッジ将軍は第17連隊の第3大隊に命令して、第7師団作戦地区から第3大隊を嘉数に向かわせた。状況は次第に悪くなった。午後には第102工兵大隊を牧港に集結させ歩兵としての任務付与をおこなった。また嘉数陣地の一気攻略を目途として3個師団から選りすぐった強力な4個大隊に、戦車隊、火焔砲装甲車等を加え特攻隊を編成した。これをブラッドフォード特攻隊と命名し嘉数高地と村落の占領を命じた。
4月23日
伊祖城趾および伊祖東側高地において孤立奮闘していた独立臼砲第1連隊、独立歩兵第15大隊、独立歩兵第21大隊の各一部は、23日夜逆襲を行った後安波茶地区に後退した。
4月23日、第105連隊第2大隊と交代した第1大隊は日本軍に奇襲攻撃を加えた。C中隊は「East
Pinnacle」の端にある丘陵頂上まで達したが、日本軍に包囲され激しい白兵戦が展開された。銃剣や手榴弾、棍棒まで使用しての肉弾戦となった。浦添丘陵の「West
Pinnacle」の戦いは、23日夜突然終わった。
日本軍は突撃ラッパを合図に約30名が万歳を叫びながら伊祖南に塹壕を掘っていた第106連隊第1大隊の前線に突貫し、ついに全滅した。
嘉数陣地は23日米軍の攻撃を受けなかった。
軍司令官は23日、第24師団に幸地以東地区の防衛を、第62師団に前田高地以西の防衛を担任するよう命令した。これにより第62師団長は、嘉数、西原、棚原、157高地にあったわが守備部隊を23日夜、軍砲兵の支援下に仲間、前田地区に撤収させた。
23日嘉数地区の米軍は総攻撃の準備期間にして翌日の攻撃に備えた。
4月24日
米軍は13分間にわたる攻撃準備射撃の後、ブラッドフォード特攻隊は0730攻撃を開始。
しかし、日本軍は既に撤退した後であった。2時間で米軍は嘉数地区の占領を終了した。嘉数には日本軍の遺棄死体600が確認された。