伊江島の戦闘
伊江島は伊江城山(172m)を中心としたほぼ平坦な島であり、飛行場の適地である。日本軍は昭和18年秋ころから陸軍飛行場の建設が進められ、昭和19年9月末には伊江島中飛行場、伊江島東飛行場が完成した。しかし昭和20年3月10日、第32軍は、飛行場の破壊を命じた。飛行場破壊は3月末まで目途とし、破壊終了後飛行場大隊などは本島に移動するように命令されていた。しかし、伊江島は3月23日から空襲を受け、3月26日からは艦砲射撃を受けるに至り、その大半は移動の機を失って伊江島に残留した。
伊江島地区隊長(第2歩兵隊第1大隊長 井川少佐)は、伊江島所在部隊約2700名を指揮した。所在部隊の主力は次のとおり。
第2歩兵隊第1大隊(3個中隊)
第1機関銃中隊
独立機関銃第4大隊第3中隊
独立速射砲第7大隊第1中隊
その他、飛行場大隊、整備隊などがあるが装備は小銃程度であり、人数分の保有数もなかった。
4月11日
国頭支隊本部から伊江島地区隊長に「いよいよ眼下に敵を見る・・」との本部半島方面の状況を知らせる電話連絡があった後通信が切れた。伊江島に対する米軍の艦砲射撃は逐次激しくなり、13日からは空襲も急激に増加した。地区隊には有効な火砲がないことから、配置の秘匿も考えて一般に射撃をしなかった。
4月15日
水納(みんな)島に米軍の所在が見られた。(米師団砲兵3個大隊揚陸)
4月15日には第305、306、902の野砲大隊が、水納島に陣地を敷き、伊江島作戦に備えた。
4月16日
4月16日払暁から伊江島は猛烈な砲爆撃を受け、青天にもかかわらず砲爆煙天を覆い、視界もきかない状況となった。米軍は0800ころ伊江島西部に上陸を開始した。海岸のわが第一線は、米軍の猛烈な支援射撃のため壕内に退避しているとき急襲された状態であった。井川少佐は各隊に一層戦備を厳にすることを命令するとともに「生死勝敗は問題ではない。ただ、死んで悔いのない戦闘を遂行すべき」旨を訓示し戦闘を指揮した。130ころ戦車数輌が、城山西方1000m付近に出現し東進して来た。独立速射砲第7大隊第1中隊は的確な射撃をもって瞬時に戦車3両を擱座させた。その後同方面には歩兵を伴う戦車十数両が出現したが、あえて近接することなく南北に移動するだけであった。16日夜には将校斥候を派遣、敵兵力を約3000との報告を受けるとともに斬り込み隊を編成して米軍を攻撃した。
4月16日暁、艦砲射撃や航空攻撃を開始。午前6時5分、上陸用舟艇は集合地点で隊列を整え、海岸から3000m離れた地点から前進を開始した。午前7時58分、第305連隊第1大隊の先発隊は伊江島南部海岸に上陸、3分後には同連隊の第3大隊が、左翼へ550m離れた海岸へ上陸を開始した。
第1大隊は高台に沿って走る道路まで達し、その後東進したが敷設された地雷原により移動が制限された。第3大隊は上陸とともに東進し、その左翼は滑走路東端の南側にさしかかった。
午前8時7分、第306連隊が伊江島南西端の海岸に上陸、左翼の第1大隊は3時間で飛行場の西端に出た。第3大隊予備大隊として10時15分に上陸完了。第1大隊の左後方を固めた。日本軍は飛行場東端で抵抗したものの、ほぼ全部隊は飛行場を横切って前進した。
4月16日の夜、日本軍は第305連隊第3大隊に総攻撃を加えてきた。それはまったくなりふり構わない攻撃であった。暗中に繰り返された肉弾戦が何時間かたって日本軍が退却したとき、第3大隊陣地やその周辺には日本兵の死体152を数えた。第305連隊の第1大隊もいくども肉弾戦を繰り返したが、第306連隊正面は比較的静かな夜であった。
4月17日
早朝から、水納島の砲兵も加えた猛烈な砲爆撃を受け、伊江部落南西方地区の米軍の攻撃は活発であった。1000ころ戦車を伴う米軍の新兵力が伊江部落南側の新波止場付近から上陸を開始した。同正面守備の第2大隊第3中隊および第1機関銃中隊は既設陣地から上陸する米軍に猛射を加え相当の戦果をあげた。17日は終日戦闘が続き、特に学校高地を中心とする地区で激戦が展開され、近接した市街戦も演じられたが陣地は確保した。部落内に進入した米軍は夜になると部落外に撤退した。
井川少佐は、上陸米軍の態勢が未だ整わないのに乗じて夜間攻撃を計画した。これは第2歩兵隊第3中隊主力を、学校高地から新波止場方向に攻撃前進するもので、18日0130から攻撃を開始した。奇襲は成功し、しばらく米軍の応戦もなかったが、やがて米軍は各種火器、艦砲射撃をもって反撃し、わが攻撃隊の海岸進出は阻止された。
第305連隊はレッドビーチ後方の高台占領のため攻撃することとなり、水納島の砲兵隊のおよび更に伊江島に上陸した一個大隊からも砲弾を撃ち込んでから、東方へ進撃した。第1大隊は海岸沿いに進撃したが、日本軍の抵抗は少なく、朝のうちに高台に到着した。そして正午までにさらに700m前進してレッドビーチ後方地域の一部を確保した。第3大隊は町から700mの高台は占領したものの、その後重機関銃による猛烈な攻撃を受けて前進が阻まれた。しかし12時45分には第3大隊は中央ビーチ後方の台地を確保して町外れまで接近した。
第307連隊第2大隊、第3大隊は午前中に伊江島南西部海岸に上陸した。第307連隊は、午後1時に攻撃を開始。日本軍の反撃は激しく、両大隊とも2時間で、360mしか前進できなかった。第307連隊は17日の午後になってもほとんど前進できず、町の近くでは鉄条網と地雷を敷設した強力な陣地に遭遇し、家を一軒一軒撃破していく戦闘が続いた。午後の夕方までどの大隊も目の前にそびえた丘陵地帯から迫撃砲や小銃弾の猛射を浴びた。自走砲は地雷で進撃できず、戦車も上陸していなかった。だが、第307連隊の各部隊はどうにかこうにかGoverment
Bill hill(学校高地)の南方550mの地点まで前進したがBloody
Ridge(女山)があまりに近く、その晩の確保をあきらめ後退した。
17日の夜から18日の朝にかけて優秀な日本軍が迫撃砲や機関銃の援護射撃を受けて米軍に突入してきた。この撃退には工兵隊が当たった。
4月18日
4月18日0730ころから米軍は攻撃を開始した。その主攻は第3中隊正面の守備する学校高地正面に向けられた。城山西側の米軍は南に移動し部落西方第2中隊正面を攻撃し、また戦車約10両を伴う部隊が城山北方に迂回するのが望見された。学校高地の戦闘は激烈を極め、第3中隊及び機関銃隊は、猛烈な砲迫の集中射撃の援護下に戦車を伴って攻撃してくる米軍に肉迫攻撃を加え、死傷続出したが、数回にわたって撃退して陣地を確保した。南海岸を陽がしに移動した米軍は、午後から女山、墓地方面を守備する第1中隊第2小隊(高野少尉)の陣地を攻撃してきた。高野小隊は30数名の小兵力であったが、戦車を伴う有力な敵を撃退して陣地を確保した。1500ころ、城山北方に配置してある第1中隊の前田小隊からの伝令が到着、来た海岸を東進してきた戦車約10両の攻撃を受け前田小隊の大部が戦死したとの報を受けた。伊江部落西部の第2中隊正面では、家屋を隔てて市街戦を演ずる激戦が続いたが、善戦して米軍の進出を阻止した。
4月18日の昼、学校高地の真南まで来て完全に攻撃が行き詰まった。そこで連隊の第3大隊を右翼へ回した。第3大隊は徐々に前進し東前村落北方300mまで進撃したが、激しい日本軍の機関銃や迫撃砲のため、米軍は逆に後退を余儀なくされた。第307連隊の右翼を守るために、第305連隊第1大隊が第307連隊第3大隊の右に移動した。この第1大隊は、午後3時に第307連隊と合流して北方へ進撃した。第306連隊は日没までに城山の北西約300mの地点まで進撃して陣地を確保した。
4月19日
4月19日(晴天)早朝から米軍の砲撃は開始され、特に学校高地および女山地区(米軍は血の稜線Bloody Ridgeと呼称)に猛砲撃を加え0900ころから攻撃前進してきた。城山の戦闘指揮所付近にも砲弾が集中し壕の入口の岩石が崩れ落ちて無線機が破壊され、軍との連絡も遂に途絶えた。
学校高地をめぐる戦闘は激烈を極め、守備部隊(第3中隊、第1機関銃中隊主力基幹)は死力を尽くして敢闘したが死傷続出し、そのうえ弾薬も欠乏し、遂に1000過ぎには、学校高地に米軍戦車の進出を見る状況となった。同高地のわが守備部隊は学校高地残存陣地を固守して奮戦した。女山付近の第1中隊の高野小隊も敢闘したが、1330ころには同高地は米軍に占領されるに至った。
井川少佐は学校高地の重要性を考え逆襲奪回を企図した。戦闘指揮所で作戦主任の業務に当たっていた独立速射砲第7大隊第1中隊長諸江大尉は、自ら部下を指揮して逆襲のため学校高地北側に進出し、まず女山の米軍を撃退し、次いで自ら先頭に立って学校高地に突進して高地上の米軍を撃退して奪回に成功した。この奪回攻撃には西方から第2中隊の一部が有効に協力した。井川少佐は、大隊予備の第2中隊第2小隊、大隊本部の生森少尉の指揮する本部要員他を学校高地に増援し、反撃する米軍を撃退して学校高地を確保した。戦闘は夜間まで続いた。
19日午後城山東側の第1中隊陣地は、東方から西進してきた戦車約10両の攻撃を受けたが、陣地を確保した。城山陣地は今や完全に包囲されるに至った。
この日の作戦も前の二日と同じく攻撃主力を女山にある日本軍最強の陣地に向けるべく第305連隊と第307連隊が南西から攻めることになった。最前線で敵軍と相対している第306連隊には攻撃命令は下らなかった。これ以上の進撃は艦砲の友軍相撃の危険性があったからである。
4月19日の朝、米軍は30分間の攻撃準備射撃で硝煙消えぬ0900、3個大隊がいっせいに攻撃を開始した。第305連隊第3大隊は、東方に進出して町の北部まで進撃し、第307連隊第2大隊、第3大隊は女山から村落北方と東方を攻撃した。第307連隊のほうは、最初から激しい抵抗を受けた。第2大隊は女山の最強の日本軍陣地目がけてまともに前進したため、進撃は難渋を極めた。次に西方に移動して西江前村落のはずれまで押して攻撃を続けた。第305連隊は水納島からの砲撃の後、1130、720m先の日本軍陣地に攻撃を開始した。部隊はどうにか町の北西部を半分まで進撃したが、退却して安全な場所に後退した。右翼は、学校高地の西方450mの地点、左翼は城山の麓西方650mに布陣した。
一方阿良方面にいた第305連隊第1大隊は、日本軍の猛射の中を1330進撃開始。学校高地東方300mまで攻め込んみ、女山に登ることに成功した。しかし日本軍は野砲や機関銃で反撃し第305連隊第1大隊を高地から追い返した。
第307連隊第2大隊は学校高地西方300mの台地上で激戦となっていた。しかし学校高地の陣地はどうしても陥落させることができなかった。
19日も状況はよくならなかった。特に女山から極めて正確に激しい砲射を浴びせてきた。これに反して米軍の砲弾は効力を与えず、無数の日本軍陣地から撃ち出される砲や機関銃に散々苦戦した。
4月20日
4月20日早朝から米軍の砲撃が開始され、特に0900前後猛烈な砲撃があり、米軍は城山の四周から攻撃を開始した。学校高地・女山地区では昨日同様激戦が展開され、寸土を争う接戦死闘が続いた。正午前には米軍戦車は学校高地に進出し、第2中隊長以下が死傷し、弾薬も欠乏し正午ころには学校高地、女山付近は完全に占領されるに至った。城山の東側及び北側からも戦車の支援する強力な米軍が城山陣地を攻撃してきた。所在部隊(第1中隊、独立機関銃第4大隊第3中隊)は猛烈な砲火の中にあって勇戦奮闘したが兵力も損耗し、陣地前縁は逐次米軍に奪取されてきた。午後からは米軍も活発に攻撃してきた。この方面の防御に任じている第2中隊の草牧小隊は、必死の防戦に努めたが逐次圧迫された。20日夕刻の戦線は城山を中心として半径300mの円周となった。
午前8時50分、米軍砲兵隊は猛烈な攻撃準備射撃を浴びせた。9時砲撃中止。9時10分砲撃再開した。この射撃に皮接して3個連隊は攻撃開始。
第306連隊は戦車隊や戦闘工兵隊が支援しながら、第1大隊を先頭に突進、次いで第3大隊。第2大隊は城山の北部スロープに残留した。地雷原に一本の道路を開け、ついに20日の昼すぎまでに城北の麓から約200mの全地域を確保した。午後2時30分第2回目の攻撃開始。敵弾幕の中を進撃して、ついに城山の山腹に到達した。
第307連隊第3大隊は南部に移動した。第307連隊第2大隊は、第305連隊第1大隊とともに女山方面に攻撃を開始。ついに女山の南側斜面を攻め上った。しかし激しい戦闘の中4、5時間かけても1mつづしか前に進めない。第307連隊第2大隊は、一度奪い取って奪い返された学校高地を取り戻した。しかしこの高地は占領するより確保の方が困難だった。米軍は反撃を予想して陣地構築を急いだ。陣地構築後も日本軍の攻撃を2回受け戦車2両が撃破された。また第305連隊第1大隊は学校高地の見渡せる東側の丸い丘を奪い返した。朝に南部に移動した第307連隊第3大隊は東側から、第305連隊第3大隊は西側から町の方向目指して進撃した。
第305連隊第3大隊は東方に進出して町の南を攻撃した。抵抗は前日と同じだった。
川平南部の第307連隊も、西江前西方の第305連隊も前日と同じ激しい戦闘を繰り返し1mも前進することはできなかった。
4月21日
井川少佐は20日1900ころ総突撃の命令を下した。この命令に接した各部隊は既に人員僅少となり、負傷者も戦友にすがって攻撃準備に向かった。その数は将校約10名、兵員百数十名程度だと推測される。井川少佐及び諸江大尉の指揮する2隊は学校高地に、第2中隊の草牧中尉の指揮するいち1隊は飛行場方面に向かうこととされた。
21日0430ころから学校高地に集中射撃を加え、突撃を敢行し、学校高地の敵陣地を突破して更に突進しようとしたが、敵火のためほとんど全員が死傷し、0630ころには総突撃も終了した。井川少佐は学校高地付近で、敵弾を受けながらも従容ととして自決した。草牧隊もほとんどが死傷した。
日本軍の組織的戦闘は終了した。米軍は同日1730、伊江島の完全占領を宣言した。
4月21日午前4時30分から日本軍は迫撃砲で1時間にわたって砲撃するや、5時30分日本軍の300から400名の部隊が左翼を強襲してきた。迫撃砲や機関銃で撃ちまくってから縦隊になって最後の突撃を敢行してきた。日本軍は学校高地下の大隊本部にも突進した。米軍は女山で一時間も肉弾戦を繰り返したあげく、ついに日本軍を退却させた。米軍の犠牲も大きかったがついに女山は占領されたのである。米軍は昼すぎから掃討戦に入った。そして午後5時30分、伊江島の確保が宣言されたのである。日本軍の戦死者4706名。米軍の戦死者172名、負傷902名、行方不明46名で、結局1120名の戦死傷者となった。