50m閉鎖曲線高地の戦闘 (米軍名 60高地) ごじゅうめーとるへいさきょくせんこうちのせんとう (べいぐんめい ろくじゅうこうち)

独立歩兵第15大隊第5中隊 
  中隊長 中尉 天谷康一郎)

日本側の公刊戦史を青
米軍側(海兵隊)の公刊戦史を赤(ただし陸軍の公刊戦史は黒)

50m閉鎖曲線高地の戦闘は米軍海兵隊1個連隊の攻撃に対して日本軍1個中隊が4日間防御戦闘を行った相互支援を主眼とした戦闘である。通常攻撃は防御部隊の3倍の勢力を投入することで成り立つとされるが、勢力比で単純に9倍、火力指数からすれば数十倍の米軍を相手として4日間、日本軍は2つの高地を相互支援しつつ洞窟陣地を駆使して主として反対斜面(敵方斜面)で防御戦闘を実施した。


下記の写真のうち、当時の写真はこの50m閉鎖曲線高地での戦闘の一場面である。この写真は沖縄の戦争関係の資料館や写真集で頻繁に使用されている、沖縄戦でも有名な写真の一枚である。しかしながら、実際にどのような戦闘が行われたのか印されたものは皆無に等しい。これだけ有名な写真であるにもかかわらず、場所を「那覇市」とか「首里近郊」としたものも多いのが実情である。




      
                  左が当時の50m閉鎖曲線高地での戦闘。右がほぼ同アングルからの現在の写真

      
  左は昭和22年に米軍が作成したもの。右は現在の地図。歴然とした2つの高地が今は判別不能なほどに宅地化された。鉄道は道路となった。



5月6日
 
沢岻北西800m付近の50m閉鎖曲線高地地区は、6日1000頃から戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けた。我が部隊は迫撃砲の支援を受け、戦車3両を擱坐させて午後には米軍を撃退した。

 第1海兵連隊第3大隊のI中隊・L中隊の南進は日本軍の防御部隊に阻まれた。日本軍はI中隊がNAN(ナン)高地に達すると同時に無防備な1個小隊に対し機関銃・迫撃砲・砲兵射撃を集中した。海兵隊員は掩体を構築して対応しようとしたが果たし得ず、迫撃砲弾が着弾する中を撤退するしか方策がなかった。
 第1海兵連隊第2大隊も同じような状況であった。F中隊は0945に第3大隊L中隊の戦線を超越し大隊の最前線にある60高地に向かって西進、攻撃を開始した。戦車と自走砲が歩兵と協同して経路上の洞窟陣地やトーチカを破壊して行った。しかし巧みに偽装された敵の47ミリ対戦車砲により3両の戦車が撃破され、装甲車による支援を得たが攻撃衝力は低下した。F中隊もI中隊と同じように中隊目標に到達したが、激しい敵の反撃にその場を保持することはできなかった。戦車の支援を失って犠牲者が増大、攻撃小隊は日本軍の逆襲に抵抗することは困難な状況に陥ったため、大隊長は撤退を指示した。G中隊が援護射撃や煙弾を撃ち込む中、1630までにF中隊は死傷者の撤収を完了して攻撃開始線まで後退、その後E中隊と交代した。


陸軍記述による60高地の攻撃
 60高地は沢岻丘陵や大名丘陵、安謝川南部の高地帯から見下ろされる場所に位置していた。さらに約200m北側にあるナン高地が60高地に対する攻撃を側面から妨害する位置にあった。典型的な反射面陣地を構成した日本軍はナン高地の米軍側である稜線及び北側斜面を放棄していたが、南斜面には無数の洞窟陣地や地下トンネルが構築されていた。
 5月6日1000から第1海兵連隊第2大隊が砲迫射撃および艦砲射撃の支援を受けながら60高地に向かって攻撃を開始した。日本軍はナン高地の反対斜面に掩体を構築していたために攻撃部隊の側背から反撃を行った。海兵隊の攻撃小隊は直後に相互の連絡が取れなくなり、死傷者を進撃経路の脇に残して前進した。戦車部隊は開豁地に出ると同時に日本軍の迫撃砲射撃や対戦車火器の射撃を受けて2両の戦車が撃破され、残りの戦車も炎上したり行動不能となった。後に確認したところ総計で10発の命中弾を受けていた。1個小隊が60高地の稜線に到達したが、手榴弾・爆雷・白燐弾・擲弾筒などの集中射撃を受けて地獄の様相に転じることになった。ナン高地にいる海兵隊は麓に日本兵が散在したために攻撃部隊の支援に乗り出すことは出来なかった。60高地上の海兵隊員は依るべき陣地もなく台上で35名の死傷者を出したため、1227大隊長は撤退を命じた。

            


5月7日
沢岻北西800m付近の50m閉鎖曲線高地付近(独立歩兵第15大隊第5中隊基幹)は昨6日に引き続く米軍の強襲を撃退して陣地を保持した。



 第1海兵連隊の新連隊長メイソン大佐は第3大隊に対し「使える火器全てを60高地の反対斜面(敵方斜面)に指向して第2大隊の60高地攻撃を支援せよ」と命令した。朝から連隊の保有する迫撃砲は敵陣地に対して連続射撃を続け、1400に戦車部隊が最前線に到着できたために第2大隊E中隊とともに攻撃を開始した。
 砲兵は目標地域の裾野を砲撃し、迫撃砲と直射火器は稜線とその反対斜面を射撃した。攻撃部隊の前方に効果的に砲撃を実施して1422までに60高地の頂上を1個中隊(E中隊)で掃討したが、E中隊が目標地域に到達したために砲兵の支援射撃は砲撃目標を変更した。その結果、海兵隊は手榴弾で交戦することとなった。時間の経過と共に日本軍の射撃が徐々に激しくなってきた。戦力が低下していたE中隊に対する強力な敵の逆襲が考えられたため、第2大隊長は現在のE中隊では防御が不可能であると判断して撤退するように命令を下達した。

                                                                        陸軍記述による60高地の攻撃
 5月7日、第2大隊による2回目の60高地の攻撃が実施されたが、これも失敗に帰した。
ありとあらゆる火砲を使用して60高地の稜線および斜面に集中攻撃を加えた後、進撃した海兵隊員は敵の反撃を受けながらも再度頂上に到達した。頂上ではあまりの至近距離で日本軍と対峙したために手榴弾さえも使用できず、兵士は銃の掌尾部を使用しての白兵戦となった。ある軍曹は負傷しながらも息絶えるまで分隊の指揮を執った。一度は後退したものの再度頂上部を奪還したが、ナン高地反対斜面からの絶え間ない日本軍の射撃が決定的な要因となり、戦死8名・負傷者37名を出しながら1700には撤退を命じられた。




5月8日
沢岻北西方の50m閉鎖曲線高地地区では、8日にも米軍の攻撃が続けられたが、善戦して陣地を保持した。



5月9日
 安波茶付近においては米軍は不断の圧迫を加え続けていた。沢岻北西方の50m閉鎖曲線高地は9日米軍に占領され、内間付近も強圧を受けつつあった。


 第1海兵連隊長メイソン大佐は第1大隊を60高地の日本軍防御陣地の破砕のために使用することに決した。この2日間第1大隊は連隊予備となっていて、この間に部隊を再編、4月30日から5月6日にかけての戦闘で生じた259名の欠員を116名の補充兵で補うことも完了していた。第1大隊は第2大隊の後方に位置して攻撃態勢を整え、砲兵による攻撃準備射撃に引き続き1205からC中隊を先頭として60高地東斜面を見下ろす狭い稜線を確保すべく攻撃を開始した。1240までにC中隊はこの目標地域の一部に到達、日本軍の抵抗が強まってきたために右側にB中隊を投入した。これにより第1大隊は60高地の東斜面にまで進出、これにより攻撃計画は次の段階に移行できることとなった。連隊長は第3大隊の火力支援の下、第2大隊に前進命じ60高地の占領確保を指示した。


 戦車及び突撃砲の直接支援下に第2大隊E中隊はただちに目標地域の峰に達した。1400までに反対斜面(東斜面)を含む60高地全域を確保、工兵隊は多数の洞窟陣地入口の爆破に着手した。第1大隊に対する反撃は依然大きく、特に左前方から射撃を受けて死傷者が増大した。そのためC中隊は抵抗排除のため第5海兵連隊の行動地域に進入、第1大隊長はB中隊の右にいるA中隊に対して60高地にある第2大隊との間隙を封鎖するように命じた。第1大隊は疲労・死傷者および連携の不十分なことにより攻撃衝力が減じたが、1600から再度攻撃前進を再興、地形を克服し強力な反撃をしのぎながら約150mほど前進して目標地域に到達、そこで左側の第5海兵連隊第3大隊I中隊、右側の第1海兵連隊第2大隊E中隊と連携がとれた。


        

 陸軍記述による60高地の攻撃
ナン高地は戦車・火焔戦車・爆雷・ナパームなどを使用して完全に海兵隊の手に落ちた。このナン高地の占領によって、60高地の攻撃が再開された。第1大隊が沢岻丘陵の北西部に進出し、第2大隊が60高地攻撃を担当した。戦車部隊と歩兵部隊が細心の注意を払いつつ前進、支援火力も威力を発揮して、この日の終わりまでに60高地は海兵隊によって完全に制圧された。

5月3日の攻勢時までは第3中隊が配備されていたが、その後の配置換えで第5中隊がこの場所を守備することになったと思われる。


50m閉鎖曲線高地には推定2個小隊程度の配備がなされていたと考えられるが、どの小隊が配備されていたのか、現在では不明である。


米海兵隊は60高地前面ではNAN高地からの側面射撃を受け、稜線を越えれば沢岻丘陵から射撃を受けたと思われる。





本来はもう少し後方からが撮影ポイントであろうが、背後は住宅となりこの位置でしか撮影できなかった。
詳しくは 「変わりゆく沖縄の戦場」を参照のこと

 





NAN高地周辺は宅地化され標高差もない状況であるが、道路の取付状況から当時の形状が想像できる。  60高地・NAN高地とも米軍側の地形が険しくなっており、防御面での優位性がうかがえる。












米軍側の記述では0945から攻撃前進開始、日本軍側は1000頃から攻撃を受けたと記述している。したがって、米軍が前進を開始してから日本軍に接触するまでが約15分であり、攻撃前進開始した位置から60高地の麓までには地雷原・障害物等の敷設はなかったものと考えられる。






日本軍は米軍側斜面(西側斜面)を最初から放棄していたことがうかがえる。海兵隊の記述よりも戦闘に直接かかわっていない陸軍側の記述の方が具体的な表現である。






写真の斜面は北側斜面であり、米軍は実際にこの方向から60高地を攻撃したのではない。しかし、5月9日の攻撃では第1大隊C中隊がこの道路(当時はない)を横断する形で西から東へ進撃している。(細部5月9日の戦闘を参照)











第3大隊に第2大隊の支援射撃を命じ、NAN高地の攻略に着手しなかったことは、米軍にとって大きな失敗であった。両高地の相互支援の関係を十分に熟知していなかったためであろう。NAN高地の日本軍にとっては50m閉鎖曲線高地に対しての支援に集中すればよく、防御戦闘としては最良の状況であったに違いない。




手榴弾戦も超越して完全なる白兵戦に陥った記述である。陸軍の記述からも、NAN高地を攻略せずに単独中隊で60高地に進撃した失敗がうかがえる。




5月8日は海兵隊の記述がなく、小部隊による偵察などを実施して翌9日の攻撃要領の策定に充当したと考えられる。





海兵隊の公刊戦史では60高地の攻撃要領が示されているが、陸軍側の公刊戦史では、まず第3大隊がNAN高地を攻略した後に第1大隊が60高地の攻撃を開始したことが記述されている。1205からC中隊が攻撃を開始していることから、NAN高地の攻略は午前中に完了していたものと考えられる。
 相互支援のNAN高地を失ったことで、日本軍にとって50m閉鎖曲線高地(60高地)は突出した陣地となり、もはや抵抗の術もない状況に陥ったのであろう。




E中隊・C中隊をもって一気に戦果拡張を実施して、海兵隊はついに沢岻丘陵に取り付くことになった。









左の写真は、「5月9日(第3段階) 第1海兵連隊の60高地攻撃図」中に記入している日本軍陣地の一番左端から撮影したものである。50m閉鎖曲線高地(60高地)を超えてきた海兵隊員を恐らくは確実に狙撃できたであろう距離・位置である。